GB MERCURY AMS16005 アンタル・ドラティ ミネアポリス交響楽団 オッフェンバック パリの喜び ヨハン・シュトラウス2世 卒業記念舞踏会

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「 GB MERCURY AMS16005 アンタル・ドラティ ミネアポリス交響楽団 オッフェンバック パリの喜び ヨハン・シュトラウス2世 卒業記念舞踏会」を通販レコードとしてご案内します。

34-6567

商品番号 34-6567

通販レコード→英ダーク・マルーン銀文字盤(EMIヘイズ工場プレス)Olympian Series

「あれ、聞いたことがある」が、ここにはあります。 ― 昨年、ハンガリー出身の名指揮者アンタル・ドラティが没後30年を迎えました。米マーキュリーは、LPレコード時代に珍しい保守的な近現代音楽を楽しましてくれた懐かしいレーベル。本盤は、ヨハン・シュトラウス2世の作品を新たに編集したバレエ音楽《卒業記念舞踏会》と、オッフェンバックのバレエ《パリの喜び》も、ロザンタールによってバレエ音楽に組み上げなおされたものです。ドラティのイメージにはそぐわない感じのウィンナ・ワルツですが、生地ブダペストは1918年まではオーストリア=ハンガリー帝国に属していたので、1906年生まれのドラティにとって、10歳代はじめまでは母国の音楽であったということにもなります。ドラティはブダペストのフランツ・リスト音楽院で作曲をコダーイとヴェイネルに、ピアノをバルトークに学び、1924年にハンガリー国立歌劇場にて指揮デビュー。その後、ドレスデンとミュンスターの歌劇場で働きましたが、ナチスの台頭によりドイツを去ります。1934年にバレエ・リュス・ド・モンテカルロの指揮者に加わると、指揮と作曲の両面で活躍。1940年2月にはヨハン・シュトラウス2世のワルツやポルカをアレンジしたバレエ《卒業記念舞踏会》をシドニーで初演しました。同団を退団後は、バレエ・シアターの指揮者に就任、1945年まで務めました。このように、ドラティはキャリアの初期をオペラ、バレエの指揮で名を馳せました。戦後はコンサート指揮者として活躍。ダラス交響楽団(1945〜48)、ミネアポリス交響楽団(1949〜60)、BBC交響楽団(1963〜66)、ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団(1966〜70)、ワシントン・ナショナル交響楽団(1970〜77)、デトロイト交響楽団(1977〜81)、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(1975〜79)の首席指揮者・音楽監督を歴任し、同時に数多くのLPレコードを録音。第1次世界大戦終結に伴うオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊から、最後の皇帝の国外亡命、国内の政治勢力の対立・混乱の中から国家社会主義によるドルフス独裁政権を経、シューシュニッヒ政権下、ナチス・ドイツ軍による強引な併合が進められていた。1933年、法的に併合、オーストリア国家が無くなり、第2次世界大戦ではロシア軍と戦い、1940年以降は、ナチス・ドイツの支配下で、多くの犠牲者を出すことになる。ハンガリーは、オーストリア=ハンガリー帝国として長く親ユダヤ政策をとっていたこともあってか、ユダヤ系の優れた指揮者を数多く輩出しており、名前の問題はほかでも見受けられました。たとえばジェルジ・ショルティはゲオルグ・シュテルンに、イェヌー・オーマンディはユージン・ブラウという具合で、ドイツ名に変えることで世界各国で目立つようになってきた反ユダヤ主義勢力の攻撃を少しでもかわす狙いがあったようです。その100年前、オーストリアの外相・宰相に1814年に就いたメッテルニヒは、ウィーン会議を主催、1821年からはオーストリアの首相としてウィーン体制を動かし、つぎつぎと起こる自由主義・民族主義の運動を弾圧し、ギリシアの独立運動や中南米諸国の独立運動にも介入した。20歳になった、ショパンがウィーンにやってきた1830年代以降、ヨーロッパの各地で民衆が蜂起してウィーン体制の動揺が顕著になっていった。そのオーストリア帝国の崩壊に至る空気を感じながら奏でられた行進曲。ウィーンのニューイヤーコンサートで、毎年最後に演奏される『ラデツキー行進曲』は、〝オーストリアなるもの〟へのレクイエムでした。

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