GB DECCA SXL2252 ジャン・マルティノン パリ音楽院管弦楽団 イベール サン=サーンス ビゼー ディヴェルティスマン 死の舞踏 オンファールの糸車 子供の遊び

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「 GB DECCA SXL2252 ジャン・マルティノン パリ音楽院管弦楽団 イベール サン=サーンス ビゼー ディヴェルティスマン 死の舞踏 オンファールの糸車 子供の遊び」を通販レコードとしてご案内します。

34-30849

通販レコード→GB WIDE BAND WITH GROOVE ORIGINAL RECORDING BY DECCA ED1, STEREO 160㌘重量盤, ラージ溝有初版 Stamper 2E/1E

フランスの本場の香りを感じさせる名盤。フランス近代音楽を得意としたマルティノンの名演で、音響空間の作り方や色彩感覚はオール・フランスならではと感じます。ダイナミックレンジの広さと音の鮮度の高さが圧倒的な英デッカの優秀録音盤。

マルティノンとパリ・コンセルヴァトワール・オーケストラOrchestre De La Société Des Concerts Du Conservatoireによる、オール・フランスならではの名盤。瀟洒でエレガント。本盤は、ジャン・マルティノンが残した録音の中でもひときわ高く評価されているレコード盤だと思います。
フランス出身の作曲家・指揮者のマルティノンは、第二次大戦後から本格的な指揮活動を始め、1976年に惜しまれつつ世を去るまでシカゴ交響楽団やフランス国立管弦楽団の常任指揮者を務めるなど国際的に活躍しました。
常にセンスのよさを失わない知的な音楽作りが持ち味で、フランス音楽の佳品を収録したこのディスクでも、シャープで冴えた演奏を繰り広げています。色彩設定と音響造型にみせる鋭敏なセンスといい、あらゆるフレーズに注入された絶妙なニュアンスといい、その目ざましい魅力はいまだに失われていません。

マルティノンの魅力全開の快演

― オーディオファイル・オーケストラ「パリ音楽院管弦楽団」とデッカのFFSS優秀録音駆使して洗練された細部にまで心の行き届いた詩情、デリケートな色彩のうつろいと同時にそれを支える明晰な視点が再現されている。

近代フランス音楽の演奏において別格の存在感を示した指揮者ジャン・マルティノン。モノラル時代からデッカには数々の録音を遺しましたが、ステレオ録音の数は決して多くはありませんでした。その中から得意のフランス音楽を集めたアルバムです。

収録曲

  1. Side-1
    1. イベールJacques Ibert・ディヴェルティスマン
      1. 序曲
      2. 行列
      3. 夜想曲
      4. ワルツ
      5. パレード
      6. フィナーレ
    2. サン=サーンスCamille Saint-Saëns・交響詩《死の舞踏》作品40
  2. Side-2
    1. ビゼーGeorges Bizet・小組曲《子供の遊び》作品22
      1. 行進曲《ラッパと太鼓》
      2. 子守歌《お人形》
      3. 即興曲《コマ》
      4. 二重奏《小さな旦那様、小さな奥様》
      5. ギャロップ《舞踏会》
    2. サン=サーンスCamille Saint-Saëns・交響詩《オンファールの糸車》作品31

ハイドンを見直した「新音楽」の開花

― 20世紀の「新古典主義音楽」運動

クラシック音楽における「新古典主義neoclassicism」は、ロマン派以降の作曲家が古典派以前の明解な形式と語法の音楽を範とする場合に用いられるが、それが最も意識的に「運動」の形を取ったのは、無調から十二音技法へと音楽語法が先鋭化した20世紀前半である。

時代は新しく、様式は古典へ。

18世紀に起きた産業革命とフランス革命の余波は、19世紀のヨーロッパ社会に大きな影響を与えました。絶対王政が廃止され市民の権利が認められるようになり、蒸気機関車の登場や新しい動力が生まれたことで、それまでの産業の構造を一変させ、経済は一気に資本主義へと舵を切りました。新しい時代の人々が古典スタイルに関心を高める契機となったのは、18世紀前半に発掘されたヘルクラネウムとポンペイの遺跡の科学的と言えるシステマティックな美しさ。この頃美術評論家ヨハがギリシア賛美の評論を書き、各国に影響を与えた。これらが新古典主義の背景になっている。広い意味では、〝古典を見直そう〟といった動きで、18世紀後半のフランスでの建築分野からはじまった。
クラシック音楽における「新古典主義」の傾向は、メンデルスゾーンやブラームスに見受けられる。中でもブラームスは、「ロマン主義者の中の新古典主義者」といった説明で、一般的には今なお通用する。かつてはフランクやエルガーも、ブラームスの作風との表面的な類似から新古典的なロマン主義者とされたが、調性感や楽曲構成の拡張という点では、新古典主義と言うことができない部分がある。また、モーツァルトのオペラを拡張し、現代に置き換えたオペラを作曲したリヒャルト・シュトラウスのそれは過去へのロマンティックな憧憬を超えるものではなかった。
後期ロマン派音楽の典型をとりながら、しかし、同時代の情感過多を排除した表現や機械的・形式主義的な楽曲構成で作曲をしたレーガー。作曲活動の初期からバロック舞曲やトッカータ的な書法を採用しているドビュッシーは意識的な、あるいは理論的な新古典主義者ではなかった。しかし、しばしばラモーやクープランを称揚し、またモーツァルトへの愛情を語るなど、音楽家として古典的なものへの憧れを持っており、それが表現の節度を目指すという姿勢につながっていた。
産業革命は蒸気機関から電気、ロケットへ。第1次世界大戦への嫌悪感から、国民意識を操作して第2次世界大戦を準備していく途中。クラウディオ・アラウやエゴン・ペトリの師として有名なピアニスト、フェルッチョ・ブゾーニが20世紀の「新古典主義音楽」を準備する。アメリカではヴィルトゥオーゾのピアニストとして演奏旅行もこなしており、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《シャコンヌ》の有名なピアノ編曲も手懸けた彼は作曲家としても、クルト・ヴァイルやエドガー・ヴァレーズ、シュテファン・ヴォルペら有名になった作曲家の弟子がいる。第1次世界大戦中は交戦中の国々で演奏することを拒否し続けたこの期間の弟子に。米国における電子音楽の先駆者の一人となるオットー・ルーニングがいる。神童ピアニストの頃にリストのピアノ演奏にも接し、ブラームス、アントン・ルビンシテインにも面会しているブゾーニは、作曲家として新古典主義音楽を提唱しただけでなく、電子音楽や微分音による作曲など、未来的な音楽像を提唱した。も、このチューリッヒ時代の弟子だ。20世紀前半、ワーグナーのオペラ、ドビュッシーのオペラを発端に無調から十二音技法へと音楽語法が先鋭化していったのは、19世紀末のロマン派音楽は動脈硬化を起こしかけてもはや袋小路に入っており、それを脱するには若返りが必要だとの認識に立っていたブゾーニは、したがって、古典派音楽以前に倣って、感情から超然とした形式主義的な音楽づくりに取り組むこと、苦悩や絶望の表現ではなく、愉悦感の表現を取り戻すことが重要であると説いた。ブゾーニは、歴史主義的立場に立ってロマンティックに過去を回顧したのではないことを楔としたい。
JP 東京芝浦電気/Capitol (赤盤) CSP1061 GLEN GRAY 〝PLEASE,MR.GRAY〟」にあるように、折しもフランスを経由してジャズがヨーロッパを席巻した。このような状況が音楽の変化を促した。フランス新古典主義音楽を象徴する「フランス六人組」をデザインした、ジャン・コクトーによると、ベートーヴェンからドビュッシーに至る19世紀の音楽は道を誤ったのだとされる。音楽の本来のとるべき道とは、偉大で深刻な音楽よりも、楽しく軽快な音楽なのであり、「フランス六人組」はハイドンを模範とし、ジャズやラテン音楽を取り込んだ。とすれば、20世紀における新古典主義音楽にパロディ的な性格があることは事実であり、「六人組」がこぞって信奉した ― 「まじめな古典派音楽」を茶化したものにほかならないエリック・サティはさしずめそこに先鞭を付けた作曲家であったと言える。ジャズとブルースを巧みに融合させた「ヴァイオリン・ソナタ」を作曲したラヴェルと、調的に安定し、息の長い歌謡的な旋律と魅力的な和声が際立ち、きわめて親しみやすいロマンティックで復古主義的な作品で有名なレスピーギは戦時中に物故し、1945年には自国の民族音楽の要素と同時代の作曲技法を結合させたバルトークも亡くなった。斯様にして戦間期にこの芸術運動を指導した主要な作曲家は人材を失い、戦後はすでに新しい音楽が議論されるようになり、十二音技法以前の作曲家はすでに過去のものと断じられ、時代を代表する作曲家として記憶されるのはヒンデミット。新古典主義音楽は前衛音楽の陰に隠れ、芸術運動としての終焉を迎えるが、然しそれは、ヒンデミットの音楽の話のときに引き取りたい。

嬉遊曲(ディヴェルティスマン) Divertissement

― ジャック・イベール

ジャック・イベール(1890〜1962)は交響組曲《寄港地》を始め、『美しき争い』『わが青春のマリアンヌ』『ゴルゴダの丘』などの映画音楽、そしてこの室内オーケストラのための《ディヴェルティスマン》でその名前が知られている。イベールはプーランク同様、生涯において終生調性音楽の作曲家であることを貫いた。その意味では新古典主義者ともいえるが、調性はルーセルのような語法と気質の相克や、プーランクのような複雑な内面の反映とは異なり、彼自身の豊かな音楽的ヴィジョンや旋律性を受け止める「器」として最適だったというべきだろう。古典的な形式感に基づく作品以上に《交響組曲「寄港地」》から晩年の《架空の愛へのトロピズム》に至るイメージ豊かな管弦楽作品、劇音楽、映画音楽などにイベールの翼は存分に羽ばたく。この《ディヴェルティスマン》は「ディヴェルティメント(嬉遊曲)」という、18世紀に多く書かれた娯楽的性格の多楽章作品の形態をとるが、これも新古典主義的意識で書かれたわけではなく、もとは劇音楽だった。《ディヴェルティスマン》は1928年、アムステルダム王立劇場からウジェーヌ・ラビッシュ(Eugène Labiche, 1815〜1888)の喜劇「イタリアの麦藁帽子」(Un chapeau de paille d’Italie)によるヴォードヴィルの劇音楽作曲の依頼を受けて作曲された。翌年の9月に初演されたが、イベールはこの中から6曲を室内管弦楽のための作品に書き直し、1930年11月31日にパリでウラディーミル・ゴルシュマン指揮のパリ交響楽団によって初演された。主人公の青年が結婚式の日に麦藁帽子を取り戻そうとして騒動に巻き込まれる喜劇の内容を彷彿(ほうふつ)とさせる、第2曲《行列》にはメンデルスゾーンの《結婚行進曲》も登場する。第4曲《ワルツ》に闖入(ちんにゅう)する軍楽隊など、コミカルな情景の連続だ。一方、第3曲《夜想曲》にはイベールならではのロマンティシズムが香る。第6曲《フィナーレ》は警察署の情景にふさわしくホイッスルが鳴り、ダダイズム的な大騒ぎとなる。6曲はつづけて演奏される、ユーモアにあふれた明るく楽しい音楽である。

交響詩《死の舞踏》 Danse Macabre (Op. 40)

― シャルル・カミーユ・サン=サーンス

シャルル・カミーユ・サン=サーンス(1835〜1921)は、ほとんどすべてといってよいほどの広範なジャンルに300曲ほどの作品を書いた多作家で、モーツァルトと比較されるほど早くから音楽の才能を発揮し、86歳の生涯を終えるまで『現役』として活動を続けた。4曲の交響詩のうちもっとも有名なのが第3作に当たる《死の舞踏》で、アンリ・カザリスというフランスの詩人の真夜中、墓から骸骨が現れ、踊りを踊るという薄気味悪い詩によっている。ハープが真夜中を告げる鐘の音を12回奏して始まる。特別の調弦をしたヴァイオリンがいっそう骸骨の踊りの不気味さを醸し出す。中世の《怒りの日》のメロディーが現れ、踊りは次第に盛り上がっていくが、オーボエによる鶏の鳴き声で、骸骨たちは墓の中に戻っていく。1874年に作曲され、翌年の1月にパリのシャトレ劇場でエドゥアール・コロンヌ指揮のコロンヌ管弦楽団によって初演された。

小組曲《子供の遊び》 Jeux D’Enfants

― ジョルジュ・ビゼー

パリ音楽院卒業後、オペラやオペレッタなどを書いたものの、なかなか成功を収めることができなかったジョルジュ・ビゼー(1838〜1875)だが、ようやく1871年に作曲したピアノ連弾曲《子供の遊び》でその名前が広く知られるようになった。シューマンの《子供の情景》と並ぶ子供の世界を描いた傑作である。ビゼーは作曲後、程なくして、この中から5曲を選んでオーケストラ用に編曲し、1873年3月2日にパリでエドゥアール・コロンヌの指揮で初演された。

交響詩《オンファールの糸車》 Le Rouet D’Omphale (Op. 31)

― シャルル・カミーユ・サン=サーンス

サン=サーンスの交響詩第1作で、1871年に作曲された。サン=サーンスの4曲の交響詩のうち、《死の舞踏》を除く3曲はギリシア神話によっているが、この《オンファールの糸車》はリディアの女王オンファールの魅力の虜になった英雄ヘラクレスの物語に基づいている。しかし忠実に物語を追った作品ではなく、サン=サーンスは女性の持つ魅力を音楽で表現したかったようだ。冒頭に現れるオンファールが回す糸車を模したと思われる第1ヴァイオリンとフルートによる6連音符が、この作品の中で重要な役割を演じている。

ハイドンのユーモア精神の逆襲。

― SNS疲れをユーモアで開放しよう。

このレコードの4曲を通じて感じられるのは、フランスの作曲家たちと新古典主義との相性の良さだ。「運動」として意識する前に、明晰めいせきな知性と精神のありようが自然と古典的な秩序を選択する趣である。そこに「交響曲」の事大主義は希薄で、イベールに至っては交響曲に駆逐されたジャンルがパロディ精神満載で逆襲してくる。夏の避暑を延長滞在すると決めた領主に、演奏中に楽団員が一人退き、二人退き。最後は楽団長一人が演奏を収め。雇われ人皆が帰郷に焦がれていることをソフトにメッセージとしたハイドンのユーモア。他国ごとではなく、物々しいスローガンやゆがんだ正義の主張が世界を不安に陥れている現在、SNSの何気ない発言が社会問題の火種となっています。回顧と復古を繰り返している音楽の潮流。100年ぶりとなったパリでのオリンピック開催となった2024年。音楽は行き詰まったまま抜け出せないでいる。フランスの作曲家たちの軽やかな精神の運動ムーヴマンに解放の鍵を見つけないか、というのが第1次世界大戦と第2次世界大戦の戦間期に巻き起こった新古典主義音楽からのメッセージとしたい。

残響を効果的に収めた録音も非常に雰囲気豊か。フランス人でなければ、出せないコクが滲み出ています。

ジャン・マルティノンはシカゴを去った後、ヨーロッパを中心に盛んな演奏活動を続けたが、フランスに戻ってからのマルティノンは以前にも増して意欲的で、その活躍は実に目覚ましかった。シカゴでの制限された窮屈なプログラムから一気に解放されたかのように、この時期の彼は特に母国フランスの作品への集中的な取り組みが注目される。
マルティノンの芸風は生涯に渡って明晰なものだったが、フランスに戻ってからのマルティノンは以前にも増して意欲的で、その活躍は実に目覚ましかった。アメリカからヨーロッパに戻った1968年以降はスケール感も増し、オーケストラ・コントロールに長け、ダイナミックな要素と色彩的な要素が巧みなバランスで同居した見事な演奏を行うようになった。1968年から首席指揮者をつとめるようになったフランス国立放送管弦楽団(ORTF)とともに演奏活動を行うようになる。
個性の確立された管楽器セクションの活躍により色彩豊かなサウンドを聴かせるORTFを巧みに統率、オーケストレーションに秀でたフランス音楽の魅力を明確に打ち出している。それだけに録音活動も水を得た魚のように精力的に行っていて、マルティノンの音楽性が縦横に発揮されたアルバムになっている。
マルティノンはいかにもフランス人らしい指揮者のひとりだが、彼の音楽がもっているきりりと引き締まった造型性、情緒的なものに流されてしまうことなく、余剰なものはすっぱりと切り捨てていく決然とした表現力、緩急強弱といった要素の対比の妙の鮮やかな際立たせ方などは、フランス人指揮者の中では〝硬派〟のタイプに属するマルティノン独自の音楽性である。
このような、フランスの指揮者としては珍しいような〝硬派〟な個性をもっていたからこそ、このベルリオーズが特別に聴こえるのだろう。1974年にORTFは改組され、フランス国立管弦楽団となるが、それに伴いマルティノンはそのポストを去り、ハーグ・レジデンティ管弦楽団の常任指揮者に就任。しかしながら、不運にも健康に恵まれず、わずか2年後の1976年にまだ66歳という働き盛りと言ってもいい年齢で鬼籍に入ってしまった。

  • Record Karte
    • 演奏者
      • ジャン・マルティノン指揮
      • パリ音楽院管弦楽団
      • 1960年6月16、17日 パリ、メゾン・ド・ラ・ミュチュアリテ録音。
      • マルティノンとパリ・コンセルヴァトワール・オーケストラによる、オール・フランスならではの名盤。
      • ダイナミックレンジの広さと音の鮮度の高さが圧倒的な英デッカの優秀録音盤。非常に希少な英国デッカ最初期プレスのSXL2252オリジナル盤で、ラージ溝有初版。オーディオファイルにも自信をもって推薦します。
      • 優秀録音、名演、名盤。

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