DE DGG SLPM138 675 ロリン・マゼール フランス国立管弦楽団 フランソワーズ・オジェア カミーユ・モラーヌ シルヴェーヌ・ジルマ ミシェル・セネシャル ラヴェル 子供と魔法

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「 DE DGG SLPM138 675 ロリン・マゼール フランス国立管弦楽団 フランソワーズ・オジェア カミーユ・モラーヌ シルヴェーヌ・ジルマ ミシェル・セネシャル ラヴェル 子供と魔法」を通販レコードとしてご案内します。

シドニー=ガブリエル・クロディン・コレットの台本を元に、いたずら坊やと周囲の家具や動物のアニミズム的交流を扱った夢幻劇。少年合唱を使い、いかにもフランス的な作りで、ドイツオペラとは全く異なる音楽世界を楽しめる作品。

他指揮者の真似できないボキャブラリーで標題音楽を見事に表現するマゼールの名盤 ― ヘルベルト・フォン・カラヤンとの因縁深いロリン・マゼール。作曲家でもある資質と卓越したヴァイオリンの腕前といった、カラヤンがコンプレックスを抱えていた才能のある ― アンネ=ゾフィー・ムターがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのヴィヴァルディの協奏曲集「四季」の録音でチェンバロを弾き、ヨーロッパ讃歌を作曲したのはカラヤンの抵抗だったとしたらマゼールはなかなかの存在だったと思える ― 指揮者。冴えた閃きでカラヤンの苦手としたレパートリーを攻めてくるのだからたまらない。しかもそれが、カラヤンに負けない変態ぶり。後世に残す手本と成る録音を残そうと頑張っていたカラヤンには、そうしたマゼールの気ままぶりも辛抱ならなかったかもしれない。歌ものでも非凡さを発揮したモーリス・ラヴェルの資質に肉薄しえた、30歳代前半のマゼールの演奏は聴きものので、卓越したキャストに加え、冴えた音質で立ち上がる精緻な演奏に驚かされる屈指の名演である。馴染みの薄いラヴェルのオペラでしょうが、この『子供と魔法』(L’enfant et les sortilèges)については先ずは、訳など気にせず音楽を楽しむところから入っていいのではなかろうか。作曲者自身〝ファンタジー・リリック〟(幻想的オペラ)と呼んだが、オペラとバレエを融合させた舞台劇である。物語は子供と子供が破壊したさまざまなモノたちの織りなす短いドタバタ・オペラ。これだけ楽しく、また美しい音楽に自然と何を言っているのか気になってくる。音楽はオーボエによる穏やかな節回しの「ところはノルマンディーの片田舎。ここに6歳か7歳くらいでしょうか、悪戯好きな子供がおりました。」という前口上で始められる。オーボエ2本による子供に母親が話しかけるラヴェルの着想の素晴らしさ。ラヴェルのオーケストレーションの見事さと、面白いコロラトゥーラも含むモノたちの多彩な歌が聴きものです。音楽は途切れることなく続けられ、全曲でひとつの楽曲になっている。聴き手は摩訶不思議な世界に自然と入っていくことができる。言うことを聞かないので母親から叱られる。しかし子供は叱られて意気消沈どころか動物をいじめ暖炉をかき回し壁紙や本をボロボロに破くなど、やりたい放題。やがて悪戯に飽きた子供がソファーに座ろうとすると、なんとソファーが後ずさり。ここから舞台は幻想の世界に入り件の子供は、反対に家具、食器、暖炉の火、お姫さま、小さな老人、木、昆虫、動物といったものから追い回されたり、罵倒されたり。ついに動物たちは、この残酷な子供を罰してやろうと決心。だが動物たちが子供そっちのけで取っ組み合いをしている最中、一匹のリスが怪我をしてしまう。その時、思いがけないことに当の悪戯っ子が身につけていたリボンを外して怪我をしたリスを介抱してあげる。そのまま気を失ってしまった子供を前に困惑する動物たち。動物たちは「あの子はいい子。賢い子だ。」と口々に言い子供を支えて家まで連れて行ってあげる。子供は両手を伸ばし最後に或る言葉を口にした後、幕が下りる。どんなことがあろうと、子供は『ママ(Maman!)』が大好き。わがままするのも、ママの気を引きたいから。普遍的な、よくある顛末。物語は子供を主役にしたお伽噺とぎばなしではあるが、音楽は大人のための寓話劇となっている。ラヴェルは日常を見つめた音楽家だった。そしてラヴェルはきれいごとだけの音楽ではないところが魅力のはず。もちろん、マゼールの指揮も素晴らしい。標題音楽を見事に表現するマゼールの名盤の一つで、「音の錬金術師」ラヴェルの華麗かつ複雑な楽譜を、艶っぽい音色、中盤から後半へのダイナミックで熱気を帯びた盛り上げていきます。オーケストラとの相性も抜群で、マゼールの感性と一致し、マゼールらしい演出を見事に呼応した名演によって、粋で洒落たフランス音楽の精華が満喫できます。マゼールの曲者ぶりが実にうまく効果を発揮した、他者にまねのできないボキャブラリーでラヴェルを聴かせてくれている大変素晴らしい出来栄えとなりました。登場人物は多いが、ひとりの歌手がそれぞれいくつかの役を兼ねる。名歌手カミーユ・モラーヌまで出演した豪華なキャストです。

異才が過ぎて、「カラヤン」になり損なった男 ― ロリン・マゼールが成人する頃には世界規模の2つの大戦は終結していた。大人げなかったヴィルヘルム・フルトヴェングラーがヘルベルト・フォン・カラヤンに向けた ― レコード録音の壺を先天的に把握していたカラヤンのオーケストラの鳴らしっぷりへの― 羨望の裏返しが、相似た関係を迎えたとき、カラヤンとマゼール青年との間ではどうだったのか。ドイツ音楽界で権勢を振るったフルトヴェングラーが1954年11月30日、風邪から肺炎になり急死した。その直前、カラヤンとセルジウ・チェリビダッケが相次いでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した。オーケストラの楽団員はカラヤンの合理的で無駄のないリハーサルが気に入る一方、チェリビダッケとはリハーサルで罵り合いになった。ベルリン・フィルのフルトヴェングラー追悼演奏会で指揮したのは、ヴォルフガング・サヴァリッシュだった。フルトヴェングラーはアルトゥル・ニキシュ追悼演奏会を指揮する機会を偶然から得たことで後継者の座を手にしたがカラヤンは、そういう手はとらなかった。ベルリン・フィルの初のアメリカ・ツアーの指揮を引き受ける条件として、カラヤンは自分を終身の首席指揮者にするように求めた。戦後彗星のようにデビューし、400回以上もベルリン・フィルのコンサートを指揮したチェリビダッケではなく、戦前から数えても10回しか指揮していないカラヤンが4代目のベルリン・フィル首席指揮者となった顛末だ。カラヤンはベルリン・フィルとの関係が深まるがロンドンのフィルハーモニア管弦楽団やウィーン交響楽団、そしてスカラ座でも指揮し多忙な日程をこなしていた。1955年10月にはフィルハーモニア管を率いてアメリカを再訪し、ベートーヴェンの交響曲全曲録音を完成した。1956年1月27日に、エーリヒ・クライバーが亡くなった。1959年1月16日にアルトゥーロ・トスカニーニが90歳の誕生日を目前にして、ニューヨークで亡くなった。1946年以来、カラヤンと盟友関係にあった英EMIのウォルター・レッグは、カラヤンが去るのを引き止める力はなくなっていた。英国のデッカ・レコードがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と専属契約を結んでいたこともあり、またベルリン・フィルと専属契約を結んだドイツ・グラモフォンが同じくカラヤンと契約を結んだ。寸間を抜くようにマゼールはまだ26歳だった1957年、ドイツ・グラモフォンでカラヤンより先にベルリン・フィルとのレコーディングを開始するという異例の扱いを受けた指揮者でした。8歳で指揮者デビューしたマゼールは、10歳のときにはNBC交響楽団の夏期公演でも指揮、続いてニューヨーク・フィルハーモニックも指揮して大きな注目を集めるほどの天才でした。その後、1952年にイタリアに留学してバッハなどバロック音楽を勉強、帰国後はボストンのバークシャー音楽センターでさらに指揮を学び、翌1953年にはヨーロッパに戻ってイタリアで指揮者デビューして成功を収めることとなります。そのデビュー公演がきっかけとなって、マゼールはヨーロッパ各地のオーケストラに客演を重ねるようになり、次第に知名度を高めてドイツ・グラモフォンと契約を結ぶに至ります。マゼールのレコーディング・デビューは、1957年2月にベルリン、イエス・キリスト教会で行われたベルリオーズ、チャイコフスキー、プロコフィエフによる3つの『ロメオとジュリエット』を収めた2枚組アルバム(LPM18381/82)で、ベルリン・フィルとの録音でした。このデビュー盤はドイツ・グラモフォンがステレオ録音を本格導入する前に行われたためモノラルとなってしまいましたが、セッション録音なので音質は聴きやすい水準です。

対峙する敵を一刀両断、返す刃で背後の敵をも倒すが如き、凄まじいキレとテンションの高さ、恐ろしくクリアな楽曲に対する読みはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の楽団員に『譜面がまるごと頭のなかにあるようでした』と震え上がらせている。そして感情の起伏の大きさ。対極から対極への転換の早さ。テンプの振りの速さと運動の大きさの力強さが、ひとつの狂気すら呼び起こす。若い頃から大作を得意としていたロリン・マゼールは、ベルリオーズの劇的交響曲『ロメオとジュリエット』Op.17も各地で演奏、ライヴ録音も遺されていますが抜粋とはいえレコーディング・デビューまで『ロメオとジュリエット』だったというのは凄い話です。組み合わせのチャイコフスキー・幻想序曲『ロメオとジュリエット』とプロコフィエフのバレエ組曲『ロメオとジュリエット』よりの5曲も好んで指揮していた作品で、若い2人の主人公の劇的な恋愛と周囲の闘争を描き上げるという題材をマゼールが濃密に描きあげます。指揮台上の超絶技巧家(ヴィルトゥオーゾ)という言葉があるとすれば、マゼール以上に相応しいマエストロはいない。また、マゼールは英語のほかにドイツ語、フランス語、イタリア語に堪能で、そうした背景もあってかフランスのオーケストラを頻繁に指揮し、さらにフランス語のオペラの録音までおこなっていたといいますから、その活動範囲の広さは驚異的。どのようなオーケストラからも普段の何倍もの輝かしい音を、短時間で手際のいいリハーサルとともに引き出した。とりわけオペラの本番は様々な不確定要素が錯綜する演奏の現場となるので、ギョッとするほどの即興の面白さ、アクの強い表情の突出で、マゼールの器用さは尊ばれた。シャープな芸風だった若きマゼールは当時破竹の勢いだったヘルベルト・フォン・カラヤンの対抗勢力として大いに注目を集め、ドイツ・グラモフォン、EMIに続いてデッカやフィリップス、コンサート・ホール・レーベルなどへも録音を開始、バロックから近代に至る幅広いレパートリーを取り上げ若手指揮者としては異例の活躍ぶりを見せていました。現在のマゼールに対する評価はいろいろとありますが、1970年代の前半におけるマゼールの評価は「風雲児」「天才」「鬼才」というものだった。カラヤンの録音で一番充実しているのは1970年代後半から80年代前半の録音。「ベルリン・フィルを使って残しておきたい」と念願込めて再録音の多いチャイコフスキー、ドヴォルザーク、ベートーヴェンと1970年代の演奏は緊張感が違うと思う。円熟してカラヤン節の極みとでも言える。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の迫力も頂点に達している。ウィーン・フィルとベルリン・フィルだけを相手に、ベートーヴェンの交響曲全集ばかりを4回も録音していた。カラヤンとの因縁深いマゼール。作曲家でもある資質と卓越したヴァイオリンの腕前といった、カラヤンがコンプレックスを抱えていた才能のある ― アンネ=ゾフィー・ムターがウィーン・フィルと共演したヴィヴァルディの協奏曲集「四季」録音でチェンバロを弾き、ヨーロッパ讃歌を作曲したのはカラヤンの抵抗だったとしたらマゼールはなかなかの存在だったと思える ― 指揮者。冴えた閃きでカラヤンの苦手としたレパートリーを攻めてくるのだからたまらない。しかもそれが、カラヤンに負けない変態ぶり。後世に残す手本と成る録音を残そうと頑張っていたカラヤンには、そうしたマゼールの気ままぶりも辛抱ならなかったかもしれない。
ロリン・マゼール(Lorin Maazel)はクラシック界の巨匠と呼ばれる世界的指揮者。1930年3月6日、フランス・パリ近郊、ヌイイ=シュル=セーヌ(Neuilly-sur-Seine)生まれ。父はユダヤ系ロシア人、母はハンガリーとロシアのハーフ。生後まもなく一家でアメリカ移住。5歳頃からヴァイオリン、7歳頃から指揮の勉強を始める。8歳でニューヨーク・フィルハーモニックを指揮。9歳でレオポルド・ストコフスキーの招きでフィラデルフィア管弦楽団を指揮。11歳でアルトゥーロ・トスカニーニに認められNBC交響楽団の夏季のコンサートを指揮。以後、10歳代半ばまでに全米の殆どのメジャー・オーケストラの指揮台に上がっている。ピッツバーグ大学在学中はピッツバーグ交響楽団の一員として活躍。イタリアでバロック音楽を研究といった楽団員経験、まだまだ未開だったバロック音楽にも作曲、演奏の両面から造詣があった。その経験を経て、1953年に指揮者デビュー。1960年、フェルディナント・ライトナーと交代でワーグナーの歌劇「ローエングリン」を指揮してバイロイト音楽祭に史上最年少でデビュー。1963年、ザルツブルク音楽祭にデビューしたチェコ・フィルハーモニー管弦楽団とのコンサートではモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番を弾き振り、ヴァイオリンの腕前も魅せる。指揮者としての信頼厚かったことも、1965年にフェレンツ・フリッチャイの後任として、ベルリン・ドイツ・オペラとベルリン放送交響楽団の音楽監督を皮切りに、1972年にジョージ・セル死去後空席だったクリーヴランド管弦楽団の音楽監督に。そして、1982年のウィーン国立歌劇場総監督就任。マゼールはウィーンに行くまでの約10年の間に厳しいトレーニングによりクリーヴランド管を以ってセル時代の規律を取り戻し、見事なオーケストラに戻すことに成功した。またヴィリー・ボスコフスキーの後任としてニューイヤーコンサートの指揮者を1986年まで務めた経歴は良く知られる。1955年から25年にわたってニューイヤー・コンサートの指揮をしてきたボスコフスキーから引き継ぎ務めた、この7年という連続期間はボスコフスキー、クレメンス・クラウスに次ぐ長さであり、マゼール以降は1年毎の交代になりましたのでニューイヤー・コンサートを語る上では外せない重要な指揮者です。当時のマゼールは1982年からウィーン国立歌劇場の総監督に就任することもあり、ウィーンでは絶大な人気を博していました。だが1984年にウィーンのポストを追われてからは ― ウィーン・フィルとのコンサートは続きマーラー全集も89年には完成したが ― 、それまでとは一転して挫折の連続。ロサンゼルス・オリンピックが行われたこの年、4度目のベートーヴェンの交響曲全集を作り上げたが、うんざりしてきたベルリン・フィルと軋轢を大きくし始めたカラヤンがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で予定していたヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集「四季」にウィーン・フィルを起用。最晩年になってカラヤンはウィーン・フィルとの関係を強めていった。カラヤンの晩年の輝きは魅力を増し、マゼールの影は薄れます。そしてついに、1989年10月。カラヤン亡き後のベルリン・フィルのシェフを選ぶ選挙でマゼールはクラウディオ・アバドに敗れ、新譜発売も途切れてしまいました。この居座古座にマゼールは巻き込まれた形だ。ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に基づく自作のオペラ「1984年」には、とばっちり経験への思いが皮肉られているのかもしれない。2002年からはニューヨーク・フィルの音楽監督に就任。初来日の1963年以降30回近く来日し、NHK交響楽団をはじめ日本の主要オーケストラを指揮。2014年5月のボストン交響楽団との来日公演をキャンセルしていたが、同年7月13日に米ヴァージニア州の自宅で肺炎のため逝去。享年84歳。
子供:フランソワーズ・オジェア(ソプラノ, Françoise Ogéas)、火、お姫様、うぐいす:シルヴェーヌ・ジルマ(ソプラノ, Sylvaine Gilma)、ママ、ティーカップ、とんぼ:ジャニーヌ・コラール(メゾ・ソプラノ, Jeannine Collard)、安楽椅子、白猫、リス、羊飼い:ジャーヌ・ベルビエ(ソプラノ, Jeanne Berbié)、こうもり、ふくろう、羊飼いの娘:コレット・エルゾグ(ソプラノ, Colette Herzog)、肘掛椅子、樹:ハインツ・レーフス(バス, Heinz Rehfuss)、振り子時計、黒猫:カミーユ・モラーヌ(バリトン, Camille Maurane)、ティーポット、数字のこびと、カエル:ミシェル・セネシャル(テノール, Michel Sénéchal)、ロリン・マゼール指揮フランス国立放送管弦楽団&合唱団。1960年11月パリ、サル・ド・ラ・ミュテュアリテでのステレオ・セッション録音。
赤ステ・フラット盤も存在するが、この盤は、赤ステ・ALLE HERSTELLER厚盤。

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