「 DE DGG LPM18381/82 ロリン・マゼール ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ベルリオーズ チャイコフスキー プロコフィエフ ロミオとジュリエット」を通販レコードとしてご案内します。
DE DGG LPM18381/82 ロリン・マゼール ベルリオーズ&チャイコフスキー&プロコフィエフ・ロミオとジュリエット
商品番号 34-14881
通販レコード→独チューリップ盤 ALLE HERSTELLER [オリジナル]
異才が過ぎて、「カラヤン」になり損なったロリン・マゼール ― ロリン・マゼールが成人する頃には世界規模の2つの大戦は終結していた。大人げなかったヴィルヘルム・フルトヴェングラーがヘルベルト・フォン・カラヤンに向けた ― レコード録音の壺を先天的に把握していたカラヤンのオーケストラの鳴らしっぷりへの― 羨望の裏返しが、相似た関係を迎えたとき、カラヤンとマゼール青年との間ではどうだったのか。ドイツ音楽界で権勢を振るったフルトヴェングラーが1954年11月30日、風邪から肺炎になり急死した。その直前、カラヤンとセルジュ・チェリビダッケが相次いでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した。オーケストラの楽団員はカラヤンの合理的で無駄のないリハーサルが気に入る一方、チェリビダッケとはリハーサルで罵り合いになった。ベルリン・フィルのフルトヴェングラー追悼演奏会で指揮したのは、ヴォルフガング・サヴァリッシュだった。フルトヴェングラーはアルトゥル・ニキシュ追悼演奏会を指揮する機会を偶然から得たことで後継者の座を手にしたがカラヤンは、そういう手はとらなかった。ベルリン・フィルの初のアメリカ・ツアーの指揮を引き受ける条件として、カラヤンは自分を終身の首席指揮者にするように求めた。戦後彗星のようにデビューし、400回以上もベルリン・フィルのコンサートを指揮したチェリビダッケではなく、戦前から数えても10回しか指揮していないカラヤンが4代目のベルリン・フィル首席指揮者となった顛末だ。カラヤンはベルリン・フィルとの関係が深まるがロンドンのフィルハーモニア管弦楽団やウィーン交響楽団、そしてスカラ座でも指揮し多忙な日程をこなしていた。1955年10月にはフィルハーモニア管弦楽団を率いてアメリカを再訪し、ベートーヴェンの交響曲全曲録音を完成した。1956年1月27日に、エーリヒ・クライバーが亡くなった。1959年1月16日にアルトゥーロ・トスカニーニが90歳の誕生日を目前にして、ニューヨークで亡くなった。1946年以来、カラヤンと盟友関係にあったイギリスEMIのレッグは、カラヤンが去るのを引き止める力はなくなっていた。英国のデッカ・レコードがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と専属契約を結んでいたこともあり、またベルリン・フィルと専属契約を結んだドイツ・グラモフォンが同じくカラヤンと契約を結んだ。寸間を抜くようにマゼールはまだ26歳だった1957年、ドイツ・グラモフォンでカラヤンより先にベルリン・フィルとのレコーディングを開始するという異例の扱いを受けた指揮者でした。8歳で指揮者デビューしたマゼールは、10歳のときにはNBC交響楽団の夏期公演でも指揮、続いてニューヨーク・フィルハーモニックも指揮して大きな注目を集めるほどの天才でした。その後、1952年にイタリアに留学してバッハなどバロック音楽を勉強、帰国後はボストンのバークシャー音楽センターでさらに指揮を学び、翌1953年にはヨーロッパに戻ってイタリアで指揮者デビューして成功を収めることとなります。そのデビュー公演がきっかけとなって、マゼールはヨーロッパ各地のオーケストラに客演を重ねるようになり、次第に知名度を高めてドイツ・グラモフォンと契約を結ぶに至ります。マゼールのレコーディング・デビューは、1957年2月にベルリン、イエス・キリスト教会で行われたベルリオーズ、チャイコフスキー、プロコフィエフによる3つの『ロメオとジュリエット』を収めた2枚組アルバムで、ベルリン・フィルとの録音でした。このデビュー盤はドイツ・グラモフォンがステレオ録音を本格導入する前に行われたためモノラルとなってしまいましたが、セッション録音なので音質は聴きやすい水準です。
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