内的な心に響く音楽を作り出したピアニスト ― 僕はシューベルトのソナタに耳を澄ませる。「どう、退屈な音楽だろう?」と彼は言う。「たしかに」と僕は正直に言う。「シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕だって最初に聴いたときは退屈だった。君の歳ならそれは当然のことだ。でも今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はそのふたつを区別することはできない。」 ― 村上春樹が「海辺のカフカ(新潮文庫) 」でシューベルトのピアノ音楽を題材に問いかけてくるのですが、それにしても、シューベルトのピアノ音楽、とりわけ後期のピアノ・ソナタほど不思議な音楽はありません。とりとめなく、全体の構成は甘くて、当人はいたって懸命なのですが、一般的な聴き手にとっては手持ち無沙汰きわまりない焦りすら覚えるのです。もしも、音楽を減点法で採点すれば至る所にマイナス点がついてトータルとしてみればあまり芳しくない結果になることは明らか作品です。ですから、この作品を「名曲」と言い切るには些か躊躇いが生じることは事実です。而して、持て余しそうな音楽をどう聴いていけばいいのか。どう演奏したって退屈なものにしかならない音楽を、退屈だと思って演奏し続けながら、それでもその中に燦めくように散りばめられたシューベルトその人のモノローグを過たずに掬い上げてこなければいけない。そう言う音楽を、最晩年に取り組むべき音楽として選んだのがクリフォード・カーゾンです。シューベルトのピアノ・ソナタの持つ「冗長さ」や「まとまりのなさ」や「はた迷惑さ」が、今の僕の心に馴染むからかもしれない。と村上は音楽エッセイ『意味がなければスイングはない (文春文庫) 』のなかで
クリスプで正確なタッチ、わざとらしさのない簡潔なユーモア、長く着込んだ上等なツィートの上着のような心地よさ、柔軟な間合いの取り方、暖除楽章におけるいかにもたおやかな、優しい音楽の湛え方、どれを取っても一級品だ。と、カーゾンを称賛していて愛聴盤だという。カーゾンと言っても、今となっては知る人ぞ知るピアニストになってしまいました。ウィルヘルム・バックハウス、ウィルヘルム・ケンプ、ルドルフ・ゼルキン、アルトゥール・ルービンシュタイン、ウラディミール・ホロヴィッツらは今でもビッグネームですが、カーゾンの認知度は彼らと比べるとかなり落ちてしまいます。しかし、それは、カーゾンが彼らと比べると一段も二段も格が落ちると言うことを意味していません。これは後半の話の中心テーマですが、この認知度の低さは、ひとえにカーゾンの「録音嫌い」に起因しています。そのうえ、カーゾンは最晩年になると本当にレパートリーが狭くなっていったピアニストです。その関心は、まず第1にモーツァルト、そしてベートーヴェンとシューベルトだけに専念したかのように見えます。その徹底ぶりは見事なものですが、作品の隅々までを知り尽くし心で最高の理想を追い求めるアーティストのみが実現できる、内的な心に響く音楽を作り出すことに姿勢を見せます。不世出のピアニストのカーゾンが、十八番とするシューベルトの「楽興の時」、そして高潔タッチと精神力が漲る、ベートーヴェンの「エロイカ」変奏曲。数あるこの曲の録音の中でも、常に「最高峰」とされる永遠の名演が、この録音です。
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