「 ショルティのR.シュトラウス/「ばらの騎士」全曲 GB DECCA SET418-21 STEREO 4LP」を通販レコードとしてご案内します。
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ドイツの作曲家、リヒャルト・シュトラウスのオペラ《薔薇の騎士》がドレスデン歌劇場で初演された日(1911年)。物語は、青年貴族の男が年上の愛人に別れを告げ、傍若無人な宿敵をこらしめて若い娘と結ばれるというもの。「音楽のための喜劇」と銘打たれたこの恋愛喜劇は、台本作家フーゴ・フォン・ホフマンスタールとシュトラウスが第二の《フィガロの結婚》(モーツァルト作)をめざした作品であった。
GB DECCA SET418-421 レジーヌ・クレスパン イヴォンヌ・ミントン ヘレン・ドナート マンフレート・ユングヴェルト オットー・ヴィーナー ゲオルグ・ショルティ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 リヒャルト・シュトラウス 歌劇「ばらの騎士」全曲
- Record Karte
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- 歌手
- 元帥夫人(マルシャリン)・・・レジーヌ・クレスパン(ソプラノ)
- オックス男爵・・・マンフレート・ユングヴィルト(バス)
- オクタヴィアン・・・イヴォンヌ・ミントン(メッゾ・ソプラノ)
- フォン・ファーニナル・・・オットー・ヴィーナー(バス)
- ゾフィー・・・ヘレン・ドナート(ソプラノ)
- ヴァルツァッキ・・・マレー・ディッキー(テノール)
- アンニーナ・・・アン・ハウエルズ(メッゾ・ソプラノ)
- マリアンネ・ライトメッツェリン・・・エミー・ローゼ(ソプラノ)
- 警部・・・ヘルベルト・ラクナー(バリトン)
- 侯爵家の家令・・・フーベルト・プリコーパ(テノール)
- ファーニナル家の家令・・・クルト・エクウィルツ(テノール)
- 家主・・・アントン・デルモータ(テノール)
- 公証人・・・アルフレート・イェーガー(バス)
- 歌手・・・ルチアーノ・パヴァロッティ(テノール)
- 小間物屋・・・ローズル・シュヴィガー(ソプラノ)
- ゲオルグ・ショルティ(指揮)
- ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
- 1968年11月、1969年6月ウィーン、ゾフィエンザールでのクリストァー・レイバーン&ジェームス・ロック/ゴードン・パリーによる録音。
- 4枚組、豪華カラーブックレット付属。
- 歌手
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ウィーンの栄華に心を寄せた魅惑のワルツ
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時局便乗的な場当たり主義を避け、努めて健全娯楽を謳った
- 長く音楽の王であり続けたヨーロッパのオペラ創造が衰退に向かうのは、20世紀の第一次世界大戦後からという。かろうじてそれを支えたのが、イタリアのプッチーニとドイツのリヒャルト・シュトラウスであったろうか。20世紀オペラの傑作のひとつ、リヒャルト・シュトラウスの《ばらの騎士》は1911年にドレスデンの宮廷劇場で初演された。リヒャルト・シュトラウスは時局便乗的な場当たり主義を避け、努めて健全娯楽を謳ったオペラを上演した。伝統というのは人がいる限り変わることはないのだろう。
- 18世紀中頃のウィーンの貴族生活を描いた、このオペラは貴族の老若男女たちの情事と密会、その発覚と言い訳で繰り広げられるドタバタ風の愛憎劇。19世紀末までの華やかりしウィーン宮廷を懐かしむようなリヒャルト・シュトラウスの音楽で、きわだって魅力的なのが、様々な場面に出てくるワルツだ。物語の設定時代にウィンナ・ワルツは誕生していないので栄耀栄華に影が差し始めた王国ウィーンへの惜別の思いが込められているとされる。音楽も、そして太陽も沈みゆく瞬間に忘れ難い光芒を放つものなのかもしれない。
- Richard Georg Strauss ―
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私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない… 私がいなくなっても、花は咲き続けるよ
- (1864.6.11 〜 1949.9.8、ドイツ)
- ― ミュンヘンの宮廷楽団のホルン奏者を父として生まれた。はやくから音楽に親しみ、21歳でビューローのもとでマイニンゲンの宮廷音楽監督と成ったのを振り出しに、各地の指揮者を歴任した。22歳で最初の交響詩《ドン・ファン》を書き、マーラーに認められた。彼は交響詩に創作意欲を燃やし多数の力作を書いたが、彼の交響詩はリストのそれをさらに発展させたもので自由な構成と多彩なオーケストレーション、新しい技法を駆使した描写力の優れたものとなっている。代表作には、《死と浄化》、《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》、《ドン・キホーテ》、《英雄の生涯》等が有る。他には《アルプス交響曲》が有名。また歌劇にも力を注ぎ、《サロメ》や《バラの騎士》は傑作としてよく上演される。
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ナチス・ドイツに内側から対抗した
- リヒャルト・シュトラウスは1864年、ミュンヘン宮廷歌劇場の第1ホルン奏者の息子として生まれた。父親による厳しい音楽教育を受けながらも、20歳になるまでにいくつかの作品を作曲する才能に恵まれた人物であった。1882年にミュンヘン大学に入学するが満足できず1883年ベルリンに移った。1885年からは指揮者としての活動もしており、ハンス・フォン・ビューローのもとで第2指揮者として学んだ彼は、指揮者としても有能で、ビューローの辞任後は彼が引き継ぐこととなった。
- また彼は戦後まで生きた作曲家であり、第2次世界大戦中にナチスに協力的な態度をとったとして戦後、軍事裁判を受けた。この裁判で無罪となった彼はその後はあまり公の場にも出ず、作曲活動もやめて穏やかに暮らした。表だった活動は控えていたが、周囲からのすすめもあり、ロンドン公演を実施している。シュトラウス本人は『アルプス交響曲』を希望したが、当日に別の演奏会があったためにオーケストラ奏者を確保できなかったために、このときの演目は『家庭交響曲』。なおこの時、ロンドンの行く先々で「あなたがあの『美しく青きドナウ』の作曲者ですか?」と、尋ねられたという逸話が残されている。イギリス人にとってもはやシュトラウスは〝過去の人〟であったが、自ら指揮棒を振り健在をアピールしている。シュトラウス自身も戦後すぐの放送インタビューで「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」と語った。
- 晩年、ひっそりと暮らしていたシュトラウスは庭の花を観てよく「私がいなくなっても、花は咲き続けるよ」と呟いたという。シュトラウスは生涯を通じて数多くの歌曲を書いたが、すでにシュトックハウゼン、ブーレーズ、ノーノ、ケージといった前衛作曲家達が登場し始めていたこの時代においては、シュトラウスの作風は、あまりに古色蒼然とした時代遅れであった。にも関わらず、この歌曲集『4つの最後の歌』は聴衆からも演奏家からも常に高い人気を誇っている。シュトラウスの最後の作品は歌曲「あおい」であった。
- 同性による三重唱の究極美
- シュトラウスは1949年9月8日、ドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンで死去した。遺言により、葬儀では『ばらの騎士』第3幕の三重唱が演奏された。他の作品においても、同時代における時代遅れ感は年数が経過するごとに見えにくくなることもあり、彼の言葉通り、リヒャルト・シュトラウスが種を蒔いた花々は、忘れ去られるどころか今なお20世紀の作曲家としては最も演奏機会の多い一人となっている。創作の面では指揮者として活動し始めた頃は古典的な作風であったが、徐々にワーグナーやリストに影響を受け、多くの交響詩やオペラを作曲した。特にオペラではモーツァルト、ワーグナーと並ぶ高い評価を得ている。
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聴き所満載
- ― レジーヌ・クレスパン、ヘレン・ドナート、イヴォンヌ・ミントン、マンフレート・ユングヴィルトといった名歌手を配し、デッカ社がゲオルク・ショルティとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、豪華歌手陣を仕立てて最高の録音スタッフで真のプロフェッショナルとして作り上げた偉大な名盤。18世紀のウィーンにおける貴族の生活を舞台にした、リヒャルト・シュトラウスのオペラの中で人気の高い楽劇《ばらの騎士》。ショルティの名声を決定的にしたのはウィーン・フィルとのワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の初のスタジオ録音(1958~65年)であったと言うのは論を待たないところだが、その歴史的なスタジオ録音を終了させた後に本盤セッションは行われた。ショルティはもともと『ばらの騎士』を高く評価しており、それは1959年にコヴェント・ガーデン王立歌劇場にデビューした際にこのオペラを採り上げていたことからも容易に想像できます。1968年録音の本盤を挟んで、デビューから25周年を祝った1985年の公演でも、ショルティは再びこの作品を上演した。自伝には亡くなる直前のリヒャルト・シュトラウスをショルティが訪ね、作品について教えを受けたことも書かれています。つまり彼の演奏は、作曲者直伝というわけです。さらに本盤で嬉しいのは、オーケストラがウィーン・フィルという魅力。リヒャルト・シュトラウスの活躍した世紀末から第一次世界大戦前夜の独墺は、絵画の世界では官能的なユーゲント・シュティール、クリムトやエゴン・シーレ、建築界では後にバウハウスを創設したグロピウス、精神医学では、フロイトが活躍していた時代であり、ウィーンはまさに爛熟に域に達していました。ウィーンを舞台としたこのオペラにとって、彼らの響きが最も相応しいことは言うまでもないでしょう。ショルティの特徴とも言える強靭とも言えるリズム感とメリハリのはっきりとした明朗さが、リヒャルト・シュトラウスが施した華麗なオーケストレーションを細部に至るまで明晰に紐解くのに成功し、スコアに記された音符の数々を忠実に音化したという意味での完成度の高さは天下逸品。ショルティのややシャープに過ぎるアプローチに適度の潤いと温もりを付加させているのがウィーン・フィルの極上の美演であると言えるところであり、その意味ではショルティとウィーン・フィルが、お互いの相乗効果を発揮させている。成熟した女性の艶やかさと気品を併せ持つクレスパン、この録音の数年後にメトロポリタン歌劇場へのデビューをオクタヴィアンで飾ったミントン、そして最近は元帥夫人役でも活躍を続けるドナートと充実の歌手陣も魅力的。特に、彼女らの終幕の三重唱を是非お聴き頂きたい。元帥夫人をレジーヌ・クレスパンが歌っているのが最大のポイント。シュヴァルツコップとも違った繊細さで、〝パリのプリマ〟という呼び名に相応しい歌唱を聴かせてくれている。また、ファニナル家の執事長にはバッハ録音でも有名なクルト・エクヴィルツ、宿の主人役にはアントン・デルモータらも出演しています。さらに、第1幕で登場する歌手役にルチアーノ・パヴァロッティがフィーチュアされているなど、聴き所満載です。村上春樹「騎士団長殺し」にも〝ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニーの演奏のLP〟と珍しく具体的な盤まで指定して登場した歴史的名盤です。
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ゲオルグ・ショルティ(洪指揮者)
- ユダヤ人であったショルティはナチスの迫害を逃れスイスに亡命を強いられたり、地方のオペラ座の監督等を歴任していたが、ワーグナーの大作「ニーベルングの指環」の初のスタジオ録音をウィーン・フィルと共に完成させ一躍トップ指揮者になる。マーラーの交響曲についても比較的早くから取り組んでおり、1960年代にロンドン交響楽団と第1、2、3、9番、そしてコンセルトへボウ・アムステルダムとともに第4番の録音を行っている。ショルティのマーラーには、どこをとっても曖昧な箇所がなく明瞭で光彩陸離たる音響に満たされている。1969年からのシカゴ交響楽団との蜜月時代にはカラヤン&ベルリン・フィルと並ぶ世界最強の音楽チームとして認められ、1970年及び1971年に録音された第5~8番を皮切りに1980~1983年にかけて第1~4番と第9番を再録音してマーラーの交響曲全集を完成させるなどコンサートに録音にと他の追随を許さない完成度の高い音楽を世界に提供した。強靭なリズム感とメリハリの明瞭さはショルティの鋭角的な指揮ぶりからも明らかであり、これは最晩年になっても変わりがないものであった。ハンガリー人の激しい気性を表す、「マジャール気質」という言葉がある。ショルティも十分マジャール気質を発揮、還暦(60歳)過ぎても激しく振り過ぎた指揮棒を自らの額に刺し、血を流す「事件」を起こした。演奏もマッチョな力感に溢れウィーン・フィルやシカゴ響、ロンドン響と行った来日公演も「精神性」を尊ぶ日本のファンの間では賛否が分かれた。さすがに晩年は陰影が加わり、ヴェルディの渋いオペラ「シモン・ボッカネグラ」などでの枯れた指揮ぶりは長年の聴衆を驚かせた。1997年、ダイアナ妃、マザーテレサが亡くなった数日後、療養先の南フランスにて急死する。気性は激しかったが、病や死といったイメージから最もほど遠かった指揮者だけにショルティ・ファン以外のクラシック音楽ファンにも衝撃を与えた。その旺盛なショルティのスケジュールには、翌週のダイアナ妃の追悼コンサートの指揮や、2000年の予定まで入っていたという。「ザ・ラスト・レコーディング」と銘打たれたブダペスト祝祭管弦楽団との1枚は40数年ぶりでハンガリーに帰郷、奇跡的に残った祖父母の墓参りを済ませた前後の1997年6月末に録音された。曲目はバルトークの「カンタータ・プロファーナ」とヴェイネルの「小オーケストラのためのセレナード」、コダーイの「ハンガリー詩編」。リスト音楽院時代の恩師3人に捧げたアルバムで、ショルティは輝かしい盤歴を閉じた。シカゴで共演したピアニスト、田崎悦子に「忘れちゃいけないよ。明日もまた、鳥はさえずるんだよ」と声をかけた通り、ショルティのマジャール魂は最後の一瞬まで不滅だった。
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理想主義者にして実用主義の一面もある。
- ゲオルク・ショルティは、日本では米国シカゴ交響楽団の音楽監督(1969~91年)として名声を博したが、57歳で同響に招かれるまでオーケストラに固定ポストを得たことはなかった。実演、録音の両分野を通じオペラ指揮者として世界的評価を確立したのが実態だ。一家はもともとシュテルン(「星」の意味)というユダヤ系の姓を名乗った。父親が子どもたちの将来を案じ、よりハンガリー風のショルティに改めた。ブダペストのリスト音楽院で大作曲家のバルトーク、コダーイ、ドホナーニ、ヴェイネルらの教えを受け、13歳の時にエーリヒ・クライバー(カルロス・クライバーの父)が指揮するべートーヴェンの交響曲第5番を聴き、指揮者を志した。旧ハプスブルク帝国の一角だけに、ハンガリーでも歌劇場で指揮者を育てるシステムが整い、ショルティは18歳でブダペスト歌劇場のコレペティトゥア(指揮者の能力を備えた練習ピアニスト)に就職した。1936年にザルツブルク音楽祭のオーディションに受かり、大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニが指揮した「魔笛」(モーツァルト)で、かわいらしい音がする打楽器のグロッケンシュピールを担当した。1991年のモーツァルト没後200年にザルツブルクで「魔笛」を指揮したショルティはグロッケンシュピールを打ち、トスカニーニの思い出を語った。良い時代は続かなかった。ナチスを恐れ、トスカニーニのつてでスイスから米国へ逃れようと考えたショルティは1939年8月15日、ブダペスト中央駅を旅立った。父が見送りに来て感極まり、息子は「1週間の別れで泣くなよ!」とたしなめた。「それが父を見た最後でした」一度は帰国を試みたが「母は何かを予感したのか、絶対にダメだと言った」。亡くなる5日前まで続いたBBC(英国放送協会)のインタビューで、ショルティは涙ながらに振り返った。番組は死後に日本のNHKでも放映され、大きな反響を呼んだ。生活に困りジュネーブ国際音楽コンクールのピアノ部門に応募したところ優勝、ようやく芽が出た。終戦直後、ハンガリーでの復職を望んだが断られ駐留米軍人として欧州に戻ったリスト音楽院の同級生のつてでナチス崩壊直後のドイツ、しかも廃虚のミュンヘンでバイエルン州立歌劇場音楽監督のポストを得た。経験不足は明らかだったが「物資も資金も同じように不足、上演回数が限られていたので勉強する時間があり、助かった」という。1949年には最晩年の作曲家リヒャルト・シュトラウスと出会い、貴重な助言を授かった。同年9月8日にシュトラウスが亡くなった際、ショルティは葬儀でオペラの代表作「ばらの騎士」の一場面を指揮した。英デッカのプロデューサー、ジョン・カルーショウは1958年、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」4部作初のステレオ全曲録音を名門ウィーン・フィルの演奏で実現したとき、「従来のワーグナー指揮者にない感性と聴覚の鋭さ、すべての旋律を切り立たせる力を備えた鬼才」としてショルティ起用に踏み切った。結果は世界でベストセラーの大成功。これらリヒャルト・シュトラウスとワーグナーは終生、ショルティのオペラ指揮の柱となった。
- サー・ゲオルグ・ショルティは20世紀に最も活躍した指揮者の一人で、ヨーロッパ、アメリカの音楽文化をリードしてきました。ピアノ、作曲、指揮をバルトーク、ドホナーニ、コダーイに学び、ピアニストとしてコンサート・デビューを果たしました。1937年にはザルツブルク音楽祭でトスカニーニの助手を務めました。最初のデッカへのレコーディングは1947年、デッカの特別なアーティストとして半世紀にわたり250を超える膨大な録音を残し、そのうちの45はオペラの全曲です。ショルティのシカゴ響との注目すべきパートナーシップは1954年に始まり、その時ショルティはラヴィニア音楽祭で初めてこのオーケストラを指揮しました。1956年リリック・オペラで客演のためにシカゴに戻り、1965年12月9日シカゴ、オーケストラ・ホールでデビューを果たしました。彼の音楽監督としての最初のコンサートは1969年9月でした。ショルティは22年間(1969年〜1991年)、音楽監督を務め、その後桂冠指揮者として7年間(1991年〜1997年)、死の直前までその活動を続けました。1971年に最初のツアーをスタートさせ、世界中にこのオーケストラの存在を広めた功績を忘れることはできません。1970年3月にシカゴのメディナ・テンプルで行われたマーラーの第5交響曲の初期録音から、1997年3月にシカゴのオーケストラ・ホールで行われたショスタコーヴィチの交響曲第15番まで、シカゴ交響楽団との演奏は世界における最も有名な指揮者とオーケストラのパートナーシップと高く評価され、グラミー賞も数多く受賞しました。ショルティの幅広いレパートリーには、ヘンデルの『メサイア』、ハイドンの『創造』、ベルリオーズの『ファウストの劫罰』、リストの『ファウスト交響曲』、そしてまたショスタコーヴィチの『モーゼとアロン』のような20世紀の傑作なども見られます。シカゴ響とともに新しい作品に取り組み、現代作曲家を擁護し、マルティヌーのヴァイオリン協奏曲第1番、デル・トレディチの『最後のアリス』、ティペットの交響曲第4番と『ビザンティウム』、ルトスワフスキの交響曲第3番などの初演も行いました。ショルティは生涯にわたりグラミー賞を33回受賞しましたが、そのうち24回はシカゴ交響楽団とともに受賞しました。
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戦争兵器の技術がもたらした音楽の快楽。
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― 世界大戦への気配の最中、潜水艦ソナーのために開発された〝Hi-Fiサウンド〟はレコード・マニアに大いに喜ばれ「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。
- ステレオ録音黎明期1958年から、FFSS ( Full Frequency Stereo Sound )と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国 DECCA レーベル。レコードのステレオ録音は、英国 DECCA が先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマン SX-68 を導入するまで続けられた。英 DECCA は、1941年頃に開発した高音質録音 ffrr の技術を用いて、1945年には高音質 SPレコードを、1949年には高音質 LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英 DECCA は LP・EP にて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でも LP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとして ffss( Full Frequency Stereophonic Sound )が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。
プロダクト・ディテール(ヴィンテージ盤)
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演奏者
- 元帥夫人(マルシャリン)・・・レジーヌ・クレスパン(ソプラノ)
- オックス男爵・・・マンフレート・ユングヴィルト(バス)
- オクタヴィアン・・・イヴォンヌ・ミントン(メッゾ・ソプラノ)
- フォン・ファーニナル・・・オットー・ヴィーナー(バス)
- ゾフィー・・・ヘレン・ドナート(ソプラノ)
- ヴァルツァッキ・・・マレー・ディッキー(テノール)
- アンニーナ・・・アン・ハウエルズ(メッゾ・ソプラノ)
- マリアンネ・ライトメッツェリン・・・エミー・ローゼ(ソプラノ)
- 警部・・・ヘルベルト・ラクナー(バリトン)
- 侯爵家の家令・・・フーベルト・プリコーパ(テノール)
- ファーニナル家の家令・・・クルト・エクウィルツ(テノール)
- 家主・・・アントン・デルモータ(テノール)
- 公証人・・・アルフレート・イェーガー(バス)
- 歌手・・・ルチアーノ・パヴァロッティ(テノール)
- 小間物屋・・・ローズル・シュヴィガー(ソプラノ)
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オーケストラウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
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指揮者ゲオルグ・ショルティ
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作曲家リヒャルト・シュトラウス
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曲目歌劇「ばらの騎士」全曲
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録音年月1968年11月、1969年6月
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録音場所ウィーン・ゾフィーエンザール
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録音チームクリストァー・レイバーン&ジェームス・ロック/ゴードン・パリー
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録音レーベルDECCA
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レコード番号SET418-421
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録音種別STEREO
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製盤国GB(イギリス)盤
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レーベル世代ED4(スモール)
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MEMBRAN2014-02-12
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