キリ・テ・カナワのラヴェル/「シェヘラザード」ほか DE EMI EL27 0135 1 STEREO デジタル DMM

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フランス後期ロマン派の作曲家、ウジェーヌ・マリー・アンリ・フーケ・デュパルクEugène Marie Henri Fouques Duparcが生まれた日(1848)。今日、この作曲家の名前を目にすることは少ないが、ガブリエル・フォーレやクロード・ドビュッシーらと同年代に生き、セザール・フランクに師事し作曲を学んだ。若くして才能を発揮するも、精神疾患を患い創作を妨げる結果となった。それでも、素朴で内なる美しさを秘めた歌曲が多く、《旅への誘いL’invitation au voyage》をはじめとして彼の歌曲は現代でもフランス歌曲のレパートリーである。

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DE EMI EL27 0135 1 – Kiri Te Kanawa, Orchestra of the Belgian National Opera, Ernest Pritchatd – Henri Fouques Duparc, Maurice Ravel – Seven Songs, Shéhérazade

フランス音楽でも見事に開いた、キリ独自の大輪の華!

  • ― オペラ界で最も有名な歌手の一人、男性でいうナイトの女性版であるデイムを授けられたキリ・テ・カナワが歌手活動からの引退を表明したのは2017年の夏の終わりだった。最後の公演となったのは、2016年10月にオーストラリア、メルボルン近郊のバララットで開かれたコンサートだった。「舞台に出る前、自分にこう言ったんです。これでおしまい。そしてそれが最後になりました」。半世紀以上にわたって活躍してきたデイム・キリはその舞台以来、歌うのをやめていたが1年近く発表はしていなかったと話す。今や、世界各国の主要な歌劇場やコンサートホールすべてに出演しているデイム・キリは、ほぼ無名だった1971年にロンドンのコベント・ガーデンで上演されたモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」で伯爵夫人に抜擢され、一躍名前を知られるようになった。「本当に信じられないようなキャリアを得た」と話す。ニュージーランド出身のデイム・キリがクラシック音楽家として、ほかにあまり例がないほどの名声を得たのは紛れもない。1981年のチャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式でヘンデルのアリア「輝かしいセラフィムに」を歌った際には、世界で6億人が視聴した。しかし、過去にこだわるのは「身勝手」だと感じている。「望み通りの100%の完璧さに到達したことはない。舞台から降りて、『うまくいった』と思ったことがないんです。どこかミスがあったといつも思う。ずっと公演全体の自分の出来を分析していました」自分自身で「これが最後に歌う音」だと決めることに強いこだわりがあったという。ただし、「自分の中でさよならが言える」までに5年かかった。「時間をかけて決めたんです」とデイム・キリは語った。「自分の声を聴きたくない」ともデイム・キリは語った。「もう過去のことです。若い歌い手を教えていて、美しく、若く、新鮮な声を聴くと、それに自分の声を合わせてみたいとは思わない」。そして、自分のキャリアを実際振り返った時も完全に満足したことはないと強調する。しかし、苦笑いしなからこう付け加えた。「努力はし続けましたよ」。デイム・キリが今一番力を入れていると話すのが、自身の財団を通じて行う、オペラ界の将来のスターたちとデイム・キリが呼ぶ歌手たちの育成だ。
  • ニュージーランド系マオリの血を引くエキゾテックな風貌のチャーミングな大ソプラノ、デイム・キリ。本盤は1983年録音でキリの声は誠に美しい。独特なクリーミィな音色と華麗な雰囲気につい忘れてしまいがちだが、その天然とも言える音楽性には生まれ育ちと関係あるのかどうか知れないが、名作オペラ・アリアから、メンデルスゾーンの「歌の翼に」をはじめレコード時代は数多くの歌手がレパートリーにした歌曲から、カントルーブの「オーヴェルニュの歌」に至るまで多くの歌が新しい生命を与えられた。非ヨーロッパ系のディーヴァたちは、その広範なバックグランウンドもあって、本格クラシックにこだわらないジャンルにも手を染め、ジャズやミュージカル、映画音楽、ポップスにと、オペラのほか、オーケストラとの共演、素適な歌唱を残している。2013年放送の『ダウントン・アビー』シーズン4に、オーストラリア出身の歌手ネリー・メルバ役で出演した。どの歌も美しいが、特にデュパルクは絶品。彼女のいわゆる〝クリーミーボイス〟は、オペラでは甘すぎて抵抗を感じてしまうケースがあるが、この「フランス歌曲集」ではそこが、まさにちょうどいい落としどころとなっていて極めて心地がいい。
  • ジョン・プリッチャード指揮、ブリュッセル王立モネ劇場管弦楽団。1983年6,7月録音、Recording Producer: John Fraser, Engineer: Neville Boyling。
  • 歌曲の最高傑作

  • ラヴェルの先駆者3人、グノー、フォーレ、デュパルクは、歌曲(メロディー)の作曲家として傑出していました。アンリ・デュパルク(Henri Duparc, 1848.1.21-1933.2.12, フランス)は、フランス歌曲ではガブリエル・フォーレとともに代表的な作曲家として知られる。ピアノと作曲をセザール・フランクに師事し、フランクの高名な弟子の一人となった。彼の歌曲はすべて1884年以前に作曲されましたが、神経衰弱に陥り、作曲を続けることができなくなりました。デュパルクは1848年に生まれ、85歳まで生きましたが、しかし、これは彼が隠遁生活を送ることを意味するものではありませんでした。彼をよく知るミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシでさえ、彼が肉体的にも精神的にも何らかの病に苦しんでいるとは誰も疑わなかっただろう。と書いている。彼の関心は幅広く、ユーモアのセンスも抜群だった。音楽面ではワーグナーが大きな影響を与え、リストの崇拝者でもあり、もちろん師であるフランクも崇拝していた。彼は深い詩情と豊かな芸術性を持った優れた歌曲作家であるが、自分の芸術に対しては、実に厳格であり、良心的であったために、彼は自分の書いた大部分の作品を破棄してしまい、歌曲も残されたのは17曲しか無いが、その殆どが珠玉のような傑作ばかりである。「前世」と「波と鐘」(本盤には収録されていません)を除くすべての曲は、もともとピアノ伴奏で作曲されました。その後、さらに6曲がオーケストラ化されました。そのなかでも特に有名なのは「悲しき歌(Chanson Triste)」、シャルル・ボードレールの詩による「旅への誘い(L’Invitation Au Voyage)」、シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リールの詩につけた「フィディレ(Phidilé)」などであり、デュパルクはこれらの歌曲にフランス語独特の美しい語感に適した優美な旋律と繊細な和声とを与え、豊かな抒情性と独創性によって、真にロマン的なフランス歌曲を完成した。
  • 1867年作曲のテオフィル・ゴーティエ作詞の「戦っている国へ(Au pays où se fait la guerre)」は、デュパルクの青春時代の最後の作品であり、高まる感情の激しさで傑出している。1868年に出版された5つの歌曲のうちの1つである「悲しき歌」は、ジャン・ラオール作詞の高まる情熱の歌で、デュパルクの最高傑作の一つである。「旅への招待」はその翌年、ボードレールの詩に作曲された。ジェラルド・ムーアが指摘しているように、ここでボードレールは空想のような魔法をかけ、デュパルクは音符の網をまばゆいばかりの音の模様に織り成している。最も劇的な歌曲の1つは「ロズモンドの館(Le manoir de Rosemonde)」だが、詩自体は目新しいものではない。エルネスト・ショーソンに捧げられた、ルコント・ド・リール作詞の「フィディレ」は傑作で、独特の情熱の歌である。もう一つのボードレールの作品であり、デュパルクの遺作となった「前世(La Vie antérieure)」は絶望の歌で、彼が生涯にわたって経験することになる音楽的無力感を予感させるものだったのかもしれません。「遺言」もまた、三流詩が優れた音楽を生んだ例であり、フランス語の盛衰を繊細で個性的な歌唱ラインへと昇華させたデュパルクの才能を如実に示しています。
  • フランスのメロディー芸術歌曲が「漂う薫り」なら、ドイツ・リートは「吹き抜ける風」

  • モーリス・ラヴェルはフランスの音楽誌『ラ・ルーブ・ミュジカール(La Revue musicale)』に『ガブリエル・フォーレの歌曲』(1920年10月)を寄稿。どの作曲家も多かれ少なかれ、グノーの恩恵を受けていると提起。いうの中で、さらに17、18世紀フランスのクラブサン音楽の「ハーモニーの神秘」を再発見したのもグノー(1818〜1893年)である、とします。グノーのあとそれを引き継いだのが、ガブリエル・フォーレとエマニュエル・シャブリエ(1841〜1941年)であり、さらにはジョルジュ・ビゼー、エドゥアール・ラロ、ジュール・マスネ、そしてクロード・ドビュッシーとつづいていく。ラヴェルによれば、フランスにおける歌曲の真の創始者はシャルル・グノーである。このフランス近代音楽に対するラヴェルの見解から遡ること数年、第一次世界大戦中、ラヴェルはパイロットとして志願したが、年齢とその虚弱体質からその希望は叶わず、1915年3月にトラック輸送兵として兵籍登録された。ラヴェルの任務は砲弾の下をかいくぐって資材を輸送するような危険なものだった。その大戦中に、最愛の母親が世を去る。生涯最大の悲しみに直面したラヴェルの創作意欲は極度に衰え、1914年までに作曲が進んでいた組曲『クープランの墓』を1917年11月完成させた以外は、3年間にわたって実質的な新曲を生み出せず、1920年の『ラ・ヴァルス』以降も創作ペースは年1曲程度と極端に落ちてしまった。母の死から3年経とうとした1919年末にラヴェルがイダ・ゴデブスカに宛てた手紙には、「日ごとに絶望が深くなっていく」と、痛切な心情が綴られている。1918年11月におよそ4年半続いた、第一次世界大戦が終結。1920年1月、ラヴェルはレジオンドヌール勲章叙勲者にノミネートされたが、これを拒否したために物議を醸し、結果的に4月に公教育大臣と大統領によってラヴェルへの叙勲は撤回された。この後、さかんに演奏旅行を行う一方、ラヴェルの創作活動は低調になり、1923年には『ヴァイオリン・ソナタ』のスケッチしか残せていない。『ガブリエル・フォーレの歌曲』を書いた、1920年代のフランスでは、エリック・サティを盟主とする「フランス6人組」の登場や、複調・無調・アメリカのジャズなど、新しい音楽のイディオムの広まりによって、ラヴェルの音楽は時代の最先端ではなくなった。1928年、ラヴェルは初めてアメリカに渡り、4ヶ月に及ぶ演奏旅行を行った。ラヴェルは黒人霊歌やジャズ、摩天楼の立ち並ぶ町並みに大きな感銘を受け、『ヴァイオリン・ソナタ』『左手のためのピアノ協奏曲』『ピアノ協奏曲 ト長調』などにはジャズの語法の影響も見られる。
  • ラヴェルはドビュッシーと共に印象派(印象主義)の作曲家に分類されることが多い。しかし、ドビュッシーとは一線を画すと同時にラヴェル本人も印象派か否かという問題は意に介さなかった。ラヴェルの作品はより強く古典的な曲形式に立脚しており、ラヴェル自身はモーツァルト及びフランソワ・クープランからはるかに強く影響を受けていると主張した。また彼はシャブリエ、サティの影響を自ら挙げており、「エドヴァルド・グリーグの影響を受けてない音符を書いたことがありません」とも述べている。わたしたちは、フォーレのワグネリアンであった側面を伝える「バイロイトの思い出」(1888年)を知っている。戦争の時代、20世紀を象徴するピアニストをひとり選べといわれたら、アルフレッド・コルトー(1877~1962年)を第一に推す人が多いのではないだろうか。コルトーの直接の指導を受けた門下生では、ディヌ・リパッティ、クララ・ハスキル、遠山慶子、エリック・ハイドシェックなどが有名である。それぞれが非常に強い個性を持っていることから、コルトーの指導方針として、おのおののピアニストの個性を重視する指導法があったようである。エコールノルマルのマスタークラスでは、コルトーの指導は「まるで詩人の朗読のようであった」くらい、多くの語彙に富んでいたといわれる。これは、ほとんど言葉に頼らず簡潔に指示を出すマルグリット・ロンの公開講座とは正反対の態度でもある。フォーレが36歳の時に作曲した「バラード」を演奏する時のピアニストの心得として、コルトーは次のように述べた。いかなる場合にも、「バラード」に何らかのイデオロギーを押し付けてはならない。とはいえこの作品全体は、リヒャルト・ワーグナーにあの〈森のささやき〉(楽劇「ジークフリート」第2幕)を書き取らせた〝自然〟に類似したものから霊感を得ていると言われており、フォーレ自身もそれを認めている。これは、とりたてて鳥たちの歌が行き交うフィナーレに指摘している。フォーレは、フランツ・リスト、エクトル・ベルリオーズ、ヨハネス・ブラームスらが成熟期の作品を生み出していたころに青年期を過ごし、古典的調性が崩壊し、多調、無調の作品が数多く書かれ、微分音、十二音技法などが試みられていた頃に晩年を迎えている。こうした流れのなかでフォーレは、歌劇『ペネロープ』でライトモティーフを採用するなど一定の影響を受けつつも、ドビュッシーのようにその影響を拒否するのでなく、形式面では、カミーユ・サン=サーンスの古典主義にとどまることはしなかったが、旋律や調性から離れることはなかった。音階においては、旋法性やドビュッシーが打ち立てた全音音階を取り入れ、頻繁な転調のなかに、ときとして無調的な響きも挿入されるが、折衷的な様相を見せる。1900年に発表した、ハープの分散和音にフルート独奏が乗る「シシリエンヌ」は余りにも有名だが、微妙な内声の変化のうえに、調性的・旋法的で簡素な、にもかかわらず流麗なメロディをつけ歌わせるというのが、フォーレの音楽の特色となっている。フォーレは晩年、耳の病に冒されました。ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのように、完全に耳の機能を喪ったのではなく、音階が狂って聴こえるという、疾患でした。これは、美しいハーモニーが、雑音以下にしか聴こえないというわけですから、壮大な規模と深い精神性を湛えつつ、もはや華やかさとは無縁の、単純化された音型で、扱う音域も狭くなり、半音階的な動きが支配的で、調性感はより希薄になっていく抽象的なものになったからでしょう。
  • また、ラヴェルはワーグナーの楽曲に代表されるような宗教的テーマを表現することを好まなかったが、「作曲家は創作に際して個人と国民意識、つまり民族性の両方を意識する必要がある」と言う考え方だった。若き日のアルフレッド・コルトーにとってヒーローは、ドイツの音楽家、反ユダヤ主義で知られるワーグナー(1813~1883年)だった。それらを含んで、話しは進む。第一次世界大戦後のフランスは、ナショナリズムの影響下で自国音楽の普及につとめていた時期でした。ラヴェルは、フォーレの音楽的特徴について、次のように書いています。サン=サーンス(1835〜1921年)の元で学んだフォーレは、師が重視する形式に対する尊重より、シャルル・グノー風の色彩の方に惹きつけられたようだ。フォーレの歌には、サン=サーンスが生み出した真に新しいテクニック、ごく短い曲にも見られるような構造の追求といったものはほとんど見られない。フォーレの作品では、構造が熟考されることはなく、もっと自然発生的である。それにより柔軟性を生んでいる。ラヴェルは「フォーレの個性は初期の作品によりはっきりと現れている」と書き、歌曲《夢のあとで Après Un Rêve Op.7-1》が非常に若いときに書かれたことに驚いています。1865年、フォーレ20歳のときの作品です。《夢のあとで》の詩は、19世紀フランスの詩人ロマン・ビュシーヌによるもの。トスカーナ地方の古い歌を元に、ビュシーヌが作品化したとも言われています。ビュシーヌはパリ音楽院声楽科の教授で、フォーレとは同僚でした。フォーレはこの歌以外にもビュシーヌの詩に曲をつけています。《秘密 Le Secret Op.23-3》はフランスの作家、アルマン・シルヴェストル(1837〜1901年)の詩による歌です。『秘密』はフォーレの歌曲の中でも最も美しい「リート」の一つである。この曲では、魅力あふれるメロディーラインと繊細なハーモニーがうまくマッチしている。曖昧模糊とした、耳にしたことのない和声の解決(協和音への移行)、遠隔調(遠い調性)への転調、予測のつかない道筋による主音への回帰。これらはフォーレが巧みな技量で、ごく初期からつかってきた危険なテクニックの一つである。エマニュエル・シャブリエもこれに似たテクニックをつかっているが、フォーレ、シャブリエどちらにも、それぞれの手法がある。シャブリエはよりくっきりと直接的な形で、フォーレは控えめに品良く。シャブリエがその効果を強調してみせるのに対し、フォーレは尖ったところを削り、さらにその先をいく。
  • ラヴェルはなぜ、この曲に対して、括弧付きで「リート」という言葉をつかったのでしょう。ドイツ歌曲に匹敵する、ということを強調する意図なのか。歌曲の夕べで歌われるドイツ歌曲は、全て「リート」と呼ばれていても、そのリートの音楽的構造は、当然ながら詩節という構造に規定される。19世紀の音楽辞典の定義ではリートとは歌うに適した数小節からなる抒情詩に、その詩節ごとに反復するメロディを付けたもののことをいう。またリートは、健全ではあるが柔軟性をいささか欠く声帯の持ち主が、それを無理な訓練にさらすこともなく歌うことができるという特性を有する。とハインリヒ・クリストフ・コッホ(1802年)がしている。この「詩と音楽が結びついた重要な芸術作品」をシリングとナウエンブルクはとくに強調し、詩と音楽の両者は、他のどんな声楽曲形式にも見られぬほど互いに深く結合されており、かつこの声楽曲形式からリートという純粋な形式が、いわば必然に生れ出ているからである」と述べている。フランツ・シューベルトは約300曲のリートを出版しており、フェリックス・メンデルスゾーンのほとんどのリート、さらにローベルト・シューマンは「ミルテの花 Op.25」を世に出し、30年の間にリートは多様化を遂げた。芸術リートにおいて、ベートーヴェンは連作歌曲集「遥かなる恋人に」で詩、音楽両面からの共通性を見出す試みをしている。6曲をピアノで結び、1曲ごとに新しい調へ転調していく。終結部で冒頭の音楽が再現され、それによって、円環が生じるリーダークライスである。シューマンの「女の愛と生涯」でも、調の配置は計画的である。冒頭曲「あの方にお会いして以来」が全体の終結として、言葉のないエピローグのようにピアノによって再び演奏される。その純音楽的なプロローグとエピローグの間に、思い出の中の人生がつまっている。そして始めの曲との円環、循環を持つのである。ベートーヴェンの連作歌曲集との相違はその叙事詩的要素にあり、全体をまとめる筋立てがあることである。
  • フォーレの歌の澄んだ優雅さが、モーツァルトの最も美しいアリアを思い起こさせるとするなら、その叙情性はシューマンのリートに匹敵するだろう。こう表現したラヴェルはフォーレの歌曲を高く評価していました。初期の作品には、明確な調性と拍節感のもとで、清新な旋律線が際だっている。旋律を歌わせる際にはユニゾン、伴奏形には装飾的かつ流動的なアルペジオが多用される。ユニゾンとアルペジオは、フォーレの生涯にわたって特徴的に見られる。フォーレの歌曲に詩を提供している詩人や作家として、先にあげたビュシーヌやシルヴェストル以外に、ポール・ヴェルレーヌ(1844〜1896年)、ヴィクトル・ユーゴー(1802〜1885年)などがいます。ラヴェルは『ガブリエル・フォーレの歌曲』の中で、ヴェルレーヌの《月の光 Clair de Lune Op.46-2》について次のように書いています。多くの音楽家たちがヴェルレーヌの素晴らしい詩に魅了されてきた。その中でフォーレはただ一人、それを音楽に変える方法を知っていた。この名曲は、努力の必要などなく、溢れるひらめきに導かれて書かれたように見える。詩が差し出すさまざまなイメージを無視し、メロディーは「そして噴水の水を恍惚の嘆きにみちびく」の1行のみに誘発されて生まれている。(詩の中に登場する)仮装したリュート弾きや踊り手に乱されることなく歌は流れ、その穏やかな流れの連なりは見事だ。こうした伴奏の装飾は、コルトーがワーグナーを引き合いに出した、「バラード」は〝自然〟に類似したものから霊感を得ていると指摘したことに繋がる。その作品形態は当時の流行を追わず、音階においては、旋法性やドビュッシーが打ち立てた全音音階を取り入れているが、これらに支配されたり、基づくことはなかった。フォーレが優しく、うぬぼれのない人物であったことはマドレーヌ・ ゴスによるラヴェルの評伝の中の『フォーレ:ラヴェルへの影響』の章でも語られています。フォーレは1896年よりマスネの後任としてパリ国立高等音楽院で作曲科の教授を務め、その門弟にはモーリス・ラヴェル、ジャン・ロジェ=デュカス、ジョルジェ・エネスクらがいる。ラヴェルは1898年からフォーレのクラスで学びはじめます。フーガの試験に2度失敗したラヴェルは、1900年にクラスから除名されますが、その後の3年間、聴講生として授業を受けることをフォーレから許されたといいます。ラヴェル自身、フォーレの歌曲について、その人柄と絡めて「個人的な発露や情熱の表出において控えめ」「最もつつましい心の故郷への接近」「静かで出しゃばらず」「穏やかで微妙な表情やふるまいのため、あきさせることがない」「思慮深さが強みになっている」などの言葉で賞賛しています。
  • シェエラザード(Shéhérazade)

  • オーケストレーションの天才、管弦楽の魔術師と言われる卓越した管弦楽法とスイスの時計職人(ストラヴィンスキー談)と評価される精緻な書法がラヴェルの特徴。ドビュッシーと共に印象派 ― 印象主義の作曲家に分類されることが多い。しかし、ドビュッシーとは一線を画すと同時にラヴェル本人も印象派か否かという問題は気にしなかった。ただし自身への影響を否定はしながらも、ドビュッシーを尊敬・評価し、1902年には対面も果たしている。また、ドビュッシーもラヴェルの弦楽四重奏曲ヘ長調を高く評価するコメントを発表している。すなわちラヴェルの作品はより強く古典的な曲形式に立脚しており、ラヴェル自身もモーツァルト及びフランソワ・クープランからはるかに強く影響を受けていると主張した。またシャブリエ、サティの影響を自ら挙げており、「グリーグの影響を受けてない音符を書いたことがありません」とも述べている。更にスペイン音楽、ジャズに加え、アジアの音楽及びフォークソング(民謡)を含む世界各地の音楽に強い影響を受けていた。アジアの音楽については、パリ音楽院に入学した14歳の春に、パリ万国博覧会で出会ったカンボジアの寺院・タヒチ島の人々の踊り・インドネシアのガムランなどに大きな影響を受けている。
  • ラヴェルのオーケストラ伴奏による歌曲集「シェエラザード(Shéhérazade)」は、パリ音楽院時代の習作の後に作曲。天才という、大輪の華が一気に開いたように登場する。そして、ラヴェルの代表的な声楽曲の一つとなった。これ以前にもピアノ曲や室内楽で傑作をものしているが、この壮麗なオーケストラの響きはどうだろう。ペルシャの情熱的な音を思わせる打楽器が響き、中国を描く場面では、後のプッチーニの歌劇「トゥーランドット」に似た異国めいた音楽が鳴る。原詩はワーグナー狂の詩人で画家でもあったトリスタン・クリングゾル(1874〜1966)による。あからさまな東洋趣味で、詩節ごとに絵画のような夢幻の風景が展開される。第1曲「アジア, Asie」、第2曲「魔法の笛, La Flûte enchantée」、第3曲「つれない人, L’Indifférent」から構成されている。最も長い第1曲が細部にわたって申し分のない筆致で進められており、ラヴェルの常として熟練した管弦楽法が発揮されている。初演は1904年5月17日に、サル・デュ・ヌーヴォー・テアトルで行われた国民音楽協会の演奏会において、アルフレッド・コルトーの指揮とパリ・オペラ座の歌手ジャーヌ・アトーによって行われた。当時のフランス音楽界における保守派の代表者ヴァンサン・ダンディは、これまでのラヴェルの作品の中で最良のものと評価した。オーケストラによる絵巻物という表現がぴったりだ。音楽好きの父の影響で、6歳でピアノを始め、12歳で作曲の基礎を学んだ。両親はラヴェルが音楽の道へ進むことを激励し、パリ音楽院へ送り出した。音楽院に在籍した14年の間、フォーレやペサールらの下で学んだラヴェルは、多くの若く革新的な芸術家と行動を共にし、影響と薫陶を受ける。『スペイン狂詩曲』やバレエ音楽『ダフニスとクロエ』、『ボレロ』の作曲、『展覧会の絵』のオーケストレーションで知られる。管弦楽伴奏歌曲集《シェヘラザード》は、東洋を描いた、ラヴェル自身の展覧会の絵だ。
  • キリ・テ・カナワ(ソプラノ歌手)

  • 数奇な人生の始まり ― キリの養父母であるトーマス&ネル・テ・カナワは、キリが養女として貰われる数年前から、ニュージーランドのギズボーンで暮らしていた。ネルの祖先は19世紀にニュージーランドへ渡ってきたイギリス人で、彼女の大伯父は喜歌劇作曲家として著名なサー・アーサー・サリヴァンだった。ネルは1938年に、マオリ族のトーマス・テ・カナワと結婚した。トーマスはマオリ族の名門の出であった。トーマスは道路工事の仕事をしていたが、後にトラック請負業を始めた。ネルは明るい性格で、家がだだっ広かったので学生に部屋を貸し、いつも家の中には若者たちの笑いが聴こえていた。夫妻は自分たちの子供を欲しがっていたが、40歳代のネルはもう子供を生める齢ではなかった。そこで地元紙に男の子の養子を求める広告を出した。1944年の4月、ソーシャル・ワーカーが生後5週間の女児を抱いて、テ・カナワ家を訪れた。夫妻は男の子でないという理由で断った。あとで夫のトーマスが「あの可哀想な女の児のことを思ってごらん。あの児は家がないんだよ。うちで育てようじゃないか」とネルにもちかけた。「あら、男の子がほしいっておっしゃったのは、あなたじゃありませんか。あなたがそうおっしゃるなら、私には異存がありませんわ」とネル。こうして、そのベイビイ・ガールはテ・カナワ家の養女となり、「キリ」と命名された。マオリ語で「鐘」の意味だそうである。
  • キリは1944年3月6日、ギズボーンで生まれた。両親はテ・カナワ家と同じく異民族同士のカップルで、母はヨーロッパ系、父はマオリ族である。母は牧師の娘だったので、マオリ族の父と正式に結婚できなかったが、生涯夫に尽くした。非常に生活が貧しかったため、娘を養女に出したのだという。キリの実父は肺結核のため35歳で没し、実母はキリが注目される数年前オーストラリアで亡くなったが、キリは2人に会ったこともないし、その係累と接触したいとも思っていない。「ニュージーランドでは、マオリの子供が貰われた場合、誰も出生のことなどを口にしない風習がありますの。そのほうがむしろビューティフルじゃございません!?」とキリ(Dame Kiri Janette Te Kanawa, ONZ, AC, DBE、誕生名はクレア・メアリー・テリサ・ローストロン)は言っている。
  • ジョン・プリッチャード(英指揮者)

  • ジョン・プリッチャード(Sir John Michael Pritchard CBE)は、1921年2月5日生まれのイギリスの指揮者。幼少時から、ロンドン交響楽団のヴァイオリニストだった父親から音楽の手ほどきを受け、イタリアに留学して指揮法、ヴィオラ、ピアノ等を習得した。1947年にフリッツ・ブッシュの後を継いでグラインドボーン歌劇場の常任指揮者となって、その後1949年にブッシュの代役としてモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』を指揮してデビューを飾り注目を浴び、以降コヴェント・ガーデン王立歌劇場にもしばしば登場していた。続いて1951年と1952年のシーズンにウィーン国立歌劇場で指揮をしたほか、1953年にはピッツバーグ交響楽団を指揮してアメリカ・デビューも果たしている。そして1957年から1963年までは、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を歴任。やがて1964年からグラインドボーン音楽祭の音楽顧問を務め、1969年から1978年まで音楽監督の任にあった。さらに1962年から1967年まではロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者も兼任し、このオーケストラをグラインドボーン音楽祭に度々出演させている。1970年万博の年には、来日直前急逝したサー・ジョン・バルビローリに代わって急遽来日、東京でニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮した。グラインドボーンの音楽監督から1978年からはケルン歌劇場の首席指揮者に転身し、1981年からブリュッセルのベルギー王立歌劇場(モネ劇場)の音楽監督も務め、オペラ指揮者として国際的な名声を確立した。その後1981年からBBC交響楽団の音楽監督になり、プロムスのシェフも兼ねて夏の名物プロムスでも活躍した。1986年からはサンフランシスコ歌劇場の音楽監督も兼任したが、1989年にサンフランシスコで急逝した。ヴィットリオ・グイやベルナルト・ハイティンクというマエストロたちに並ぶと際立った個性はないが、常に安定感のある流麗な演奏を保持して信頼度は高く、後年待望のサーに叙され、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのモーツァルトの「イドメネオ」録音により真のマエストロへの道を踏み出した直後にガンのため亡くなった。1989年のプロムス・ラスト・ナイトに、既にガンのため勇退を表明していたサー・ジョンが特別出演し椅子に座ったまま1曲だけ振ったあとで聴衆に引退のメッセージを伝えると満員の聴衆から温かい万雷の拍手が贈られました。この数ヶ月後の12月5日、奇しくもモーツァルトの命日に亡くなっています。
EL27 0135 1

プロダクト・ディテール(ヴィンテージ盤)

  1. レーベル
    EMI
  2. レコード番号
    EL27 0135 1
  3. 作曲家
    1. アンリ・デュパルク
    2. モーリス・ラヴェル
  4. 楽曲
    1. Side-A
      1. デュパルク:フィデレ(Phidilé)
      2. デュパルク:旅への誘い(L’Invitation Au Voyage)
      3. デュパルク:前世(La Vie antérieure)
      4. デュパルク:ロズモンドの館(Le Manoir De Rosemonde)
      5. デュパルク:遺書(Testament)
      6. デュパルク:戦っている国へ(Au pays où se fait la guerre)
    2. Side-B
      1. デュパルク:悲しい歌(Chanson Triste)
      2. ラヴェル:シェエラザード
  5. 演奏者
    キリ・テ・カナワ(ソプラノ)
  6. オーケストラ
    ブリュッセル王立歌劇場管弦楽団
  7. 指揮者
    サー・ジョン・プリチャード
  8. 録音年月
    1983年6,7月
  9. 録音種別
    STEREO DIGITAL
  10. 製盤国
    DE(ドイツ)盤
  11. 製盤年
    1984
  12. レーベル世代
    新ニッパー
D'Amour L'Ardente Flamme
Te Kanawa
Angel Records
1997-08-12


Arias & Songs
Puccini / Kanawa / Nagano
Erato
2009-01-27


トゥナイト(キリ・テ・カナワ究極のベスト)
キリ・テ・カナワ
EMIミュージック・ジャパン
2001-11-21


Maori Songs
Kanawa, Kiri Te
Emd/EMI Classics
1999-10-09


West Side Story-Complete
Marilyn Horne
Deutsche Grammophon
1987-07-07


Faure & Durufle;Requiems
Davis
Essential Classics
1997-06-23


Mccartney:Liverpool Orator
White
EMI Classics
1993-05-28


Classic Albums
Kanawa, Kiri Te
Decca
2014-02-27


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