「 秋に聴きたいドビュッシー ロマンティックな響きの中に、切なさが育っていく」を通販レコードとしてご案内します。
角笛の音は悲しく
Le son du cor s’afflige vers les bois
- Le son du cor s’afflige vers les bois
- D’une douleur on veut croire orpheline
- Qui vient mourir au bas de la colline
- Parmi la bise errant en courts abois.
- L’âme du loup pleure dans cette voix
- Qui monte avec le soleil qui décline
- D’une agonie on veut croire câline
- Et qui ravit et qui navre à la fois.
- Pour faire mieux cette plaine assoupie
- La neige tombe à longs traits de charpie
- A travers le couchant sanguinolent,
- Et l’air a l’air d’être un soupir d’automne,
- Tant il fait doux par ce soir monotone
- Où se dorlote un paysage lent.
詩はヴェルレーヌの詩集「智慧」から。夕暮れの中の悲しげなお天気雨の情景。雨を描写するかのようなピアノの連打音が美しい。
角笛の音が森に向かって訴える
- 角笛の音が 森に向かって訴える
- 悲痛に嘆く 孤児のよう
- 丘の麓までたどり着いたところで 息絶える
- ちぎれちぎれて 吠声は北風に紛れていく
- 狼の魂が 児の声に伴って啼いている
- その声は高まる 太陽が傾くにつれて
- 甘え声とも聞こえるが 苦悶の響きともなり
心を奪われるとともに 胸引き裂かれそうになる
- その嘆き いくらかなりと鎮めようと
- 雪が 長い一筋の糸を落とす
- 血の色をした落陽の中に 軌跡を描く
- そして大気はといえば まるで秋の吐息のよう
- それほどこの単調な夕暮れに 大気はかくも穏やか
- そしてこの風景も ゆったりと自らをいたわっている
CDはアマゾンで
マリアンヌ・クレバッサ
ワーナーミュージック・ジャパン
2017-11-22
Marianne Crebassa
Warner Classics (Erato)
2017-10-20
画家、クロード・モネが生まれた日(1860年)。自然の中でモチーフの見え方が時間経過と共に変化するそれ自体を絵に表すという概念・絵画技法を生み出す。ル・アーブルの港の風景を描いた「印象・日の出」も発表当時は酷評されるものの、次第に受容され、そこから派生した美術運動はドビュッシーら当時の音楽家らへも影響を与えた。
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- 自然に目を移し大空や大気、大地や、そこに住む人々の人生を讃美する、ドビュッシーの音楽。
- ― 和声やリズムだけで、最も独創的かつ最も驚異的なやり方で表現している。
- ― クロード・ドビュッシー(Claude Debussy)は1862年生まれ。1918年没。フランスの作曲家。印象主義音楽の創始者。ワグネリアンで、マラルメなど象徴派詩人たちと接していた。中世の旋法、5度7度の組み合わせ、全音音階等独創的な音色とリズムを獲得し、ロマン派音楽から脱却、新しい世界を切り開いた。
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自然光で照明したような影があり、表情たっぷりゆったりとして、厚みと奥行きを感じさせる。いささかホコリは舞っているが、空気を感じさせる。
- ドビュッシーは印象派の開祖であり代表者でありますが、この呼び方はもともと絵画上の一流派からの借用です。印象派の絵描きたち、モネやマネやシスレーなどという人たちは、対象物そのもの、つまりその輪郭なり形状なりに対する忠実さよりも、対象物から受ける印象に対して忠実たらんと欲したので、出来上がる絵は当然輪郭のぼやけた相対的にモヤモヤした感じのものとなります。ドビュッシーの音楽が、そのような絵画を連想させるために、印象派もしくは印象主義の名は、音楽にも流用されるようになったというわけです。
- 実は音楽史上に位置する「交響的素描《海》」と《夜想曲》の持っている意味は非常に大きく、少し大げさに言えばバッハから始まり、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンと続くドイツ音楽の大きな流れがワーグナーに至って頂点に達した時、その流れを変え、新しい音楽世界を創りだす役割を果たしたといってもいいでしょう。今、私たちが一番広い意味で使う現代音楽はドビュッシーに始まり、彼が、その資格を持つことの証を立てたのが、こうした曲であるということも出来ます。《前奏曲集》は第2次世界大戦後の映画や、テレビ映画の音楽と置き換えることもでき、《版画》は場面の推移を代弁する効果音たり得る。生涯の最後に作曲された3つのソナタはワーグナーを超越してしまっているし、シェーンベルクに肉薄する。
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ロシア貴族趣味を継承して滲んだ音色を嫌った
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- ドビュッシーは1862年にフランスで生まれ、5歳のときパリへ移った。母親は子供を愛さず、自分の生活を重視する性格だったため、伯母の元ですごし、そのとき初めてピアノのレッスンを受けた。
- パリ音楽院在学中から様々な人の伴奏者、ピアノの家庭教師をして生活費を稼いだが、特にチャイコフスキーのパトロンとして有名なフォン・メック夫人に1880年から仕え、様々な国をまわった。また、この頃からムソルグスキーの自由さ、繊細に内面を語る楽曲に尊敬と愛着を持ち始めた。
- また、ローマ大賞の副賞である、イタリアのヴィラ・メディチへの留学生活にはあまり気が乗らず、2年間で切り上げた。その後ワーグナーに傾倒するが、すぐに反対の立場になった。しかし、多くの資料は、彼の反対はポーズであったとしている。ドビュッシーの女性関係は、まず1881年アマチュア歌手であるヴァニエ夫人への愛から20曲以上献呈した。その中には「亜麻色の髪の乙女」も入っている。
- 次に1888年、ガブリエルデュポン(ギャビー・レリー)と同棲をはじめたが、10年以上の同棲のあとに彼女を捨て、リリー・テクシェと結婚した。このとき多くの友人は批判したが、彼は自らの幸せのため、友人、恋人に冷酷にすることもいとわなかった。しかし、リリーとの結婚生活は6年しか続かなかった。
- 彼は自身の生徒の母親のエンマ・バルダック夫人と恋に落ち、駆け落ちをして彼女との間に娘を1人もうけた。彼女はクロード・エマという名で、愛称をシュウシュウ(キャベツという意味)という。彼女の前でアルフレッド・コルトーはドビュッシーのピアノ曲を弾き、「おとうさんはもっとよく音を聞いていた」と言われたという。
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クロード・ドビュッシー略歴
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1862年
フランスで生まれる
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1871年
ピアノを学び始める
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1872年
パリ音楽院に入学
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1875年
初めて演奏会に出演
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1884年
ローマ大賞受賞
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1885年
ローマ大賞の副賞である、ヴィラ・メディチへ留学
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1888年
デュポンと同棲を始める
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1899年
リリー・テクシュと結婚
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1905年
リリーと離婚、エマと同棲する
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1915年
母死去
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1918年
死去
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