ムター、ワイセンベルクのブラームス&フランク/ヴァイオリンソナタ集 DE EMI 1C157-43 443/44T STEREO デジタル DMM 2LP

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「 ムター、ワイセンベルクのブラームス&フランク/ヴァイオリンソナタ集 DE EMI 1C157-43 443/44T STEREO デジタル DMM 2LP」を通販レコードとしてご案内します。


11/08

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ヨハネス・ブラームスJohannes Brahmsの《ヴァイオリン・ソナタ第1番》が初演された日(1879年)。46歳の頃の作品で、《交響曲第1番》に膨大な時間を費やしたように、本作ができるまでも数作の作品を書いては破棄したと言われる。また、ブラームスの歌曲《雨の歌Regenlied》からメロディの引用が見られるために、現代ではこの作品は通称「雨の歌」と呼ばれている。

ちなみにマリー・ヘックマン=ヘルティのピアノ、ロベルト・ヘックマンのヴァイオリンによってボンにて公開初演した記録による。ヨーゼフ・ヨアヒムのヴァイオリン、ブラームスのピアノによって、最初にプライベートな非公開の場で最初の演奏が行なわれた。11月20日には、ブラームスとヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世によって再演された。
  • 最初の4小節で出来不出来が決まる優美な名曲

  • ヨハネス・ブラームスはドイツ・ロマン主義の大作曲家の一人。ハンブルクの町の楽団でコントラバス奏者をしていた父親から音楽の手ほどきを受けたが、マルクスゼンにピアノと作曲を学び長足の進歩を遂げた。ヴァイオリニストのヨアヒムと知り合い、その紹介でシューマンを訪れて、その才能を見出された。以後シューマン夫妻と親交を重ね、シューマンの発狂後はクララに救いの手を差し伸べ、その美しい友愛は死ぬまで続いた。彼の内省的な音楽を考えるとき、クララの影響を見逃すことは出来ない。29歳からはウィーンに定住。途中、短期間、何度か指揮者としての活動を行ったが、作曲に専念して余生を送った。
  • 彼の本領は室内楽にあると言えるが、中期以後に4つの交響曲を発表して「ベートーヴェンにつぐ」交響曲作家と評された。また、歌曲作家としても一流であった。彼の作風は厳格な形式のうちにロマン的な内容の新しい技法を盛り込んだ点に特色があり、「新古典主義」ともいわれる。代表作は「ピアノ協奏曲第2番」、「ヴァイオリン協奏曲」、「大学祝典序曲」、「ハンガリー舞曲」、「クラリネット五重奏曲」、3つの「ヴァイオリン・ソナタ」、「ドイツ鎮魂曲」など。
  • たとえ一人の巨匠が我々の元から去ったにせよ、同じようにすばらしい才能がこの驚くべき少年の中に花開く。

  • ブラームスは1833年にハンブルクの貧民街で生まれた。彼の父は、ダンスホールなどで働き、彼の母親も内職をするような家庭であった。父親は作曲家になることには反対し、オーケストラの一員になってほしかったようだ。そこで、父親は特にピアノが上手だったブラームスのために、教師のもとへ向かわせた。
  • ブラームスの才能をあらわす例としては、彼の教師がフェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディが死んだ際、「たとえ一人の巨匠が我々の元から去ったにせよ、同じようにすばらしい才能がこの驚くべき少年の中に花開く」と言ったということである。ブラームスはこの教師の下で、ピアノの技巧、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンやヨハン・ゼバスティアン・バッハなどの技術を学び、15歳の頃には演奏会とピアノ個人レッスンで生計を立てるようになっていた。
  • また読書も多く行い、後の彼の精神に大きな影響を与えた。しかし、フランツ・リストやフレデリック・ショパンなどとは比べることの出来ないほどの貧しさで、また彼は、サロンなどの金持ちの雰囲気になじめなかったため、パトロンを得ることも出来ない苦しい生活を続けた。
  • 自然を愛好し、J.S.バッハに心酔しており、音楽的に間違った音は一音たりとも許せなかったブラームスから若い作曲家へのメッセージは「ほめてもらおうなんて思うんじゃない。君の全てが台無しになってしまう。」

  • メンデルスゾーン、シューマン、リスト、ブラームスという大作曲家たちと関係の深かったハンガリー出身の大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム。彼の完璧な技巧と気品溢れる響き、きびきびとしたリズムの上で歌われる美しい旋律は、大作曲家にも愛された。特に親交の濃かったのがブラームスだった。ブラームスはピアノの名手だったが、ヴァイオリンの作品を書く時は、ヨアヒムの意見を聞いた。もっともブラームスは、終世にわたって献身的な友人だったヨアヒムとさえ喧嘩をするような偏屈で人嫌いだったが。
  • ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番は、同じ頃に書かれたヴァイオリン協奏曲とともに、ヨアヒムの助言も容れて書き上げられ、ヨアヒムによって初演された名曲だ。
  • ヴァイオリンの巨匠ヨアヒム(1831年6月28日〜1907年8月15日)は現在では、主にベートーヴェン、ブラームス等のヴァイオリン協奏曲のために書いたカデンツァの作者として知られていますが、19世紀後半、ヨアヒムはヨーロッパで最も偉大な演奏家兼作曲家、音楽教育家として、音楽創造に大きな役割を果たしました。
  • 彼はライプツィッヒ音楽院で学んでメンデルスゾーンから目をかけられ、1850年にリストが楽長を務めるヴァイマール宮廷楽団のコンサートマスターに就任します。更に多くの作曲家と交流があり、なかでもブラームスとシューマン一家との交際を結んだのは大きな貢献です。
  • 1852年にハノーファー宮廷のヴァイオリニストに就任したヨアヒムは、翌年レメーニを介して2歳年下のブラームスと知り合います。ブラームスは1853年にライン川沿いの徒歩旅行の際にヨアヒムを訪ねシューマンに知り合うことを勧められ、紹介状を渡されます。
  • そして、ヨアヒムを介して機会を得た1850年9月30日は、ブラームスとシューマン夫妻にとってすばらしい出会いの日となった。ブラームスはシューマンの批評、助言を得ようとして何度か自らの作品を送っていましたが、尽く送り返されていましたが、今回は大歓迎で、妻クララとともにブラームスが持参したピアノ作品をシューマンは弾いて絶賛し、クララは「素晴らしい人物と出会えた。」という趣旨の日記を残しています。
  • 19歳のブラームスが、自らのハ長調ソナタを弾くと、43歳のロベルト・シューマンは興奮しながら妻クララを呼び、2人の前でブラームスはもう1度演奏した。ブラームスの演奏はシューマン夫妻に絶賛され、出版社に、この天才の出現を伝えた。シューマンにはこの頃もはや音楽界における力は無かったが、大きな宣伝となった。また、ブラームスの作品の出版のお膳立てをしたのもシューマンであった。ついにブラームスとシューマン家のつながりは、一生消えることは無かった。
  • 甘い音色とロマンティックな旋律でしっとりと優しい雰囲気のヴァイオリン・ソナタの第1番、副題の「雨の歌」はブラームス自身がつけたのではなく、第3楽章の冒頭の旋律が歌曲「雨の歌」から引用されていることからつけられた通称のようなもの。特に「雨」について歌った曲ではないと言われている。
  • 自作を聴いた聴衆から「天国に持って行きたい」と言われたら作曲家は相当嬉しいと思う。そう言ったのが、親しい女性だったら尚更である。実際にクララは、こういってブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番 op.78 を誉めた。ブラームスの喜びはいかほどだっただろう。どうもこの作品は女性たちの感性に深く訴えるようだ。才色兼備のリーズルことエリザベート・フォン・ヘルツォーゲンベルグはヴァイオリン・ソナタ第1番を自分に献呈して欲しいとねだったのだ。ところが誰にも献じられていないのは深い訳がある。クララの最後の子供フェリクスは、元来病弱だった。フェリックスの名前はメンデルスゾーンにちなんで付けられた。詩の才能があり彼のいくつかの詩にブラームスが音楽を付けてもいる。フェリックスの詩によるブラームスの3つの歌曲は、わが恋はライラックの茂みのように緑(Meine Liebe ist grün wie der Fliederbusch) Op. 63-5、ニワトコの木に夕風が(Wenn um den Holunder der Abendwind kost) Op. 63-6、うち沈んで(Versunken) Op. 86-5。その目のかけぶりもあってか、ブラームスの子であるとの噂もある。ヴァイオリンを嗜んだというフェリックスにちなんで、ブラームスはヴァイオリン・ソナタ第1番の第2楽章の冒頭部分の楽譜を24小節にわたって引用した手紙でクララを慰めたのだ。薬石効無く、フェリックスはこの世を去る。1879年2月16日、ブラームスが手紙を送ったその日にフェリックスは24歳の若さで死去した。ヴァイオリン・ソナタ第1番の完成はその年の秋である。その演奏を聴いたクララは、「雨の日には幼い頃を思い出す」という趣旨のテキストをもつ歌曲「雨の歌」の旋律で始まる第3楽章中で、この旋律が回想されるのを聴くに及んで「天国に持って行きたい」と称した。
  • しかし、「雨の歌」は冒頭から柔らかで美しい響きと優しげな雰囲気を持ち、その上に、スークとカッチェンが弾く「雨の歌」は軽やかで繊細さがあるので、窓の外でパラパラと降っている小雨が、時々強くなったり、風に吹かれて由来で降る音に、音楽がしっくりハーモニーを作るのに趣を感じるのです。振りが強くなって時折音楽が霞んでしまうのもファンタジーに浸らせてくれるし、曲が終わる頃に空が明るく晴れ間を見せたりすると、それこそ天の意志を感じるのです。わたしがブラームスを意識して聴いた最初は交響曲第1番でした。何度か繰り返し聴いて、音楽の流れを覚えてしまったぐらいの時でした。夕方聴き始めて、第3楽章から第4楽章に入ったぐらいの時に西陽がレコード・プレーヤーを包み込んだ時に、この音楽を心で感じてしまいました。それから時を得て、《ドイツ・レクイエム》を聴いた時にブラームスと対面した思いがして以来、宗教への敬虔さをブラームスにいつも感じています。
372270

DE EMI 1C157-43 443/444T アンネ=ゾフィ・ムター アレクシス・ワイセンベルク フランク ブラームス ヴァイオリン・ソナタ集

DE 新ニッパーレーベル, 1983年の優秀録音です。
ボックス入り。独英仏語リーフレット付き。

  • Record Karte
    • 1982年9月パリ、サル・ワグラム録音。
  • ヴァイオリンという歌う楽器の特質を理解したヴァイオリンに最もふさわしい音楽

  •  ― とアンネ=ゾフィ・ムターが語るように、歌うヴァイオリンの魅力を堪能できる1枚です。
  • 当時20歳のムターが巨匠アレクシス・ワイセンベルクと組んだ唯一の録音。ヴァイオリンとピアノのデュオなのに、ピアノの音の強さは感じられず、ヴァイオリンの音色を消さないで引き立てているのは、流石ワイセンベルクと言いたい。しかしながらムタ-の弓使いのテクニックは若いだけ有って非常に端切れが良い。健康的で明るく、女性的で優しい『ブラ-ムス』です。天才少女が大人になった豊潤な音色を聴かせてくれます。ワイセンベルクのメランコリックなピアノと相まってブラームスの世界観に浸れる名演、録音も優秀です。ワイセンベルクは、なかなかの男前で優しい雰囲気の人だった。1970年代初頭、ヘルベルト・フォン・カラヤンとの共演の録音、「チャイコフスキーのコンチェルト」の録音が発売され、それがベストセラーとなり、そして、日本でもワイセンベルク・ブームが起こった。1980年ころ日本へも何度か来てテレビにも登場した。演奏と同じような雰囲気を持っていた。そして、その人気に肖って、サントリーは彼をテレビ・コマーシャルに利用する。商品はサントリー・ウヰスキーの「リザーブ」である。巷では、「高価なスタインウェイを何台も所有し、そして、その中の愛器を飛行機で特別に運んで演奏する」などの情報が飛び交った。彼は日本では大人気で、普段クラシックは聴かないという層の、特に女性までに人気があった。パリ管弦楽団との共演のチャイコフスキーの協奏曲のLPは、カラヤン指揮ウィーン交響楽団、ソロがスヴァトスラフ・リヒテルのLPに惹かれていた聴き手を、見事に裏切った。ワイセンベルクのピアノは、ソリストというよりも、オーケストラの一員のような溶け込み。この時代からのカラヤンで試みようとしていた、オーケストラを映画音楽か、フレンチポップスのオーケストラのような、音響づくりの特徴が色濃くなっていた。それにしても、ワイセンベルグはどのようにも、ピアノが弾けた人だった。カラヤンとの共演によって有名になったワイセンベルクだが、それは彼の音楽の一面に過ぎない。ワイセンベルクの音楽には、過る陰りがある。孤独感漂うといっていいのか、〝硬質の美〟というものの極限を教えてくれた掛け替えのないピアニストである。
  • 非情な状況の中、ショパンの音楽を守るように弾いた、映画「戦場のピアニスト」と重ねてしまいたくなるピアニストが、ここにも一人いる。彼もまた、ユダヤ系の家系に生まれピアニストとして生涯を送った。母がピアニストだったので、幼い頃から音楽に親しみ、3歳からピアノを習っていたアレクシス・ワイセンベルクは、8歳の年にはコンサートで演奏している。それは1937年、つまりはヒトラーのナチスが暴虐の限りを尽くしていた時代に少年期を過ごした。1941年、アレクシス少年が育ったブルガリアはナチス・ドイツと同盟を結んだ。彼の母は息子とともにトルコへ亡命しようとするが失敗し、強制収容所へ入れられる。収容所でアコーディオンを弾いていたら、音楽好きのドイツの将校に気に入られ、その将校は母子を駅に連れて行き放置した。つまり逃がしてくれたのだ。こうしてこの未来の大ピアニストはホロコーストの犠牲にならず、トルコを経て、イスラエルへ移住した。第二次世界大戦が終結すると、ワイセンベルクはニューヨークのジュリアード音楽院で学ぶことになり、渡米する。その時、イスラエルでのワイセンベルクの師だったレオ・ケステンベルクは、ニューヨークにいるウラディミール・ホロヴィッツとアルトゥル・シュナーベルへの紹介状を書いてくれた。ワイセンベルクは1947年にレーヴェントリット・コンクールで優勝、フィラデルフィア管弦楽団のコンクールでも1位を取るなど、華々しいスタートを切るが、これはホロヴィッツがウィリアム・スタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団とのコンサートをキャンセルし、代役にワイセンベルクを推薦したので実現したものだった。次から次へとコンサートのスケジュールが組まれ、「自分がこなせる量より、演奏会の予定が20も多くなる」状況となった。1956年、彼は「自分自身を深く見つめ、ひたすら自分の勉強に打ち込みたかった」と、「隠遁」してしまう。ちょうどこの時期、ホロヴィッツもまた長い隠遁生活に入っていた。ワイセンベルクはアメリカを離れ、コンサートもしなければ、レコーディングもすることなく、パリで暮らすようになっていたワイセンベルクは、1965年に映画に出た。これがストラヴィンスキーの「ペトルーシュカによる三楽章」の映像化で、ワイセンベルクが自ら説明するには、「あらゆる角度から、弦を通して撮影し、下からも上からも撮影できるように、ピアノを部分的に取り外す」などの手法で撮った、1960年代の前衛的な映像の一つとなった。映画で演奏したのを引鉄に1966年1月、パリでリサイタルを開いて成功した。そして翌67年春には、ニューヨーク・フィルハーモニックのコンサートで、スタインバーグの指揮のもとラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」を弾いた。これはアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリがキャンセルしたため、スタインバーグの求めに応じた復帰という形になった。さて、映画「ペトルーシュカによる三楽章」のピアニストを協奏曲のソリストに起用してみようと注目していた、ヘルベルト・フォン・カラヤンは、ワイセンベルクとチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」の映画の撮影を行い、1967年9月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のシーズン最初のコンサートにワイセンベルクは登場した。ついに、ワイセンベルクの長い隠遁生活に終止符が打たれ、カラヤンとの蜜月が始まり、ピアノ協奏曲の名曲の数々が録音された。
  1. 3722213
  2. 3722214
  3. 1C157-43 443T

プロダクト・ディテール(ヴィンテージ盤)

  1. 演奏者
    • アンネ=ゾフィ・ムター
    • アレクシス・ワイセンベルク
  2. 作曲家
    1. セザール・フランク
    2. ヨハネス・ブラームス
  3. 曲目
    1. ヴァイオリン・ソナタ
    2. ヴァイオリン・ソナタ第1番〜第3番
  4. 録音年月
    1982年9月
  5. 録音場所
    パリ、サル・ワグラム
  6. 録音レーベル
    EMI
  7. レコード番号
    1C157-43 443/444T
  8. 録音種別
    STEREO DIGITAL
  9. 製盤国
    DE(ドイツ)盤
  10. レーベル世代
    新ニッパーレーベル
  11. 製盤年
    1983.
CDの購入はアマゾンからできます。

ショップ・インフォメーション(このヴィンテージ盤はショップサイトの扱いがあります。)

  1. 商品番号
    372270
  2. 盤コンディション
    良好です(MINT~NEAR MINT)
  3. ジャケットコンディション
    良好です
  4. 価格
    13,200円(税込)
  5. 商品リンク
  6. ショップ名
    輸入クラシックLP専門店 ベーレンプラッテ
  7. ショップ所在地
    〒157-0066 東京都世田谷区成城8-4-21 成城クローチェ11号室
  8. ショップアナウンス
    べーレンプラッテからお客様へ
    当店のレコードは、店主金子やスタッフたちが、おもにヨーロッパに直接出向き、実際の目と耳で厳選した、コンディション優秀な名盤ばかりです。国内で入手したものや、オークション品、委託商品はございませんので、安心してお求めになれます。

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