終りに見た街 ― 神々の破滅を描いた《ニーベルングの指環》序章《ラインの黄金》が鳴り響いた日

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「 終りに見た街 ― 神々の破滅を描いた《ニーベルングの指環》序章《ラインの黄金》が鳴り響いた日」を通販レコードとしてご案内します。


9月22日

1869年の本日(9月22日)、ワーグナーの代表作である舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』4部作の1作目、『ラインの黄金』がミュンヘン宮廷歌劇場にて初演された。こののち『ヴァルキューレ』が1856年、『ジークフリート』は1858年から1864年にかけての中断をはさんで1871年、『神々の黄昏』は1874年に完成する。
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神々の破壊を描いた大叙事詩的連作オペラ《ニーベルングの指環》の第1作 ― 正確には序夜、「ラインの黄金」から、新しい城ヴァルハラへ神々が入っていく場面の壮麗なフィナーレ(ヴァルハラ城への神々の入城)を聴こう。黄金を奪われたことで神々の終焉を恐れるラインの乙女たちの「ラインの黄金よ!」の嘆きの歌が印象的だ。

ラインの乙女たちの「ラインの黄金よ!」

ラインの黄金!ラインの黄金!きよらかな黄金!
何とけがれなく、明るく、愛らしく輝いていたことか!
ああ、悲しい・・・あの透き通った黄金がないなんて。
どうか返して!
あの清らかな黄金を、あたしたちに返して!
ラインの黄金!ラインの黄金!きよらかな黄金!

ああ。もう一度、けがれなき水底のおもちゃとして輝いて!

信頼と真心があるのは、ただこの水底ばかりで、
上のほうでは、虚偽と卑劣が我が世の栄華を誇っている!

復讐に燃える花嫁ブリュンヒルデが一族に血を血で洗う戦争を仕掛ける凄惨なお話

リヒャルト・ワーグナーは1813年にドイツで生まれた作曲家です。かつてオペラといえば、イタリア語で歌うものがほとんどでしたが、ワーグナーはドイツ語でも歌えることを示して、オペラの歴史を変えました。また、当時、オペラは娯楽と思われていましたが、ワーグナーはオペラを芸術にまで高めようとしました。

ニーベルングの指環

この四部作は、中世の叙事詩『ニーベルンゲンの歌』や、北欧の神話ヴェルズング伝説やドイツ地方の民話(フケー「大蛇殺しのジークフリート」もそのひとつ)を素材として、ワーグナー自身が彼一流の神秘的架空物語としたもの。正確に言えば、中世初め(5~6世紀)の神話伝説を、作者は不明だが13世紀にまとめられたものが一般に読まれています。ひとつはドイツ、他の一つは北欧で編纂され、両者は極めて似た内容を持っています。ドイツではジークフリートの英雄物語としてストーリー性のある「ニーベルンゲンの歌」となり、一方北欧(ノルウェイ、アイスランド)では「エッダ」と、神々やらワルキューレの話も含む「サガ」になっています。このふたつは神話伝説として伝わるスタイルをそのまま集成したもので一貫性はなく、ワーグナーは北欧の「エッダ」をベースに、「ニーベルンゲンの歌」で肉付けています。
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バイロイト音楽祭では、『ワルキューレ』と『ジークフリート』の間に一日休みを挟んで上演されます。前半は大神ヴォータン、後半が英雄ジークフリートを主人公にして、神々から、悩ましい腰使いで誘惑するラインの乙女、神々の城を作る巨人族の兄弟、魔法の道具を作る小人族、ドラゴン、そのドラゴンの宝の在り処にジークフリートを導くフェアリー、戦いに明け暮れている民族、彼らに連れ去ら割れ花嫁にされてしまう女性が関わってくるが、この物語の中心にあるのは、世界統治の力を持つ黄金の指環。黄金の力が人間の権力欲を刺激し、醜い権力闘争を引き起こす、古くて新しい永遠のテーマ。果てしない奪い合いの果に、黄金の指環は荒れ狂うライン川に飲み込まれ、その力は、何もかも流し去ったあとの大地に還元される。

ライン川の流域で大暴れしていた悪い竜を倒し、溢れんばかりの黄金を手に入れた英雄ジークフリートは計略で落命 ― 神々の破壊を描いた「ニーベルングの指環」は最後に新しい世界を予見する。

Wilhelm Richard Wagner

(1813.5.22 〜 1883.2.13、ドイツ)

19世紀の半ばに活躍したドイツ歌劇の大作曲家。ベートーヴェンに心酔して音楽家となり、各地を遍歴し、辛酸しんさんを嘗めているうちに次第に芸術的にも人間的にも大きく成長し、次々と名作歌劇を書いていった。歌劇「さまよえるオランダ人」、「タンホイザー」、「ローエングリン」を経て、楽劇「トリスタンとイゾルデ」で一つの頂点を築き、大成時代に入ってから全4部からなる舞台総合芸術の楽劇「ニーベルングの指環」を完成、歌劇史上に巨大な金字塔を打ち建てたのである。そして、これらの楽劇を上演すべく建設されたのが、有名なバイロイト祝祭劇場である。
 音楽史上で彼ほど大きな夢を持ち、それを着々と実現していった作曲家というのは他にいない。苦労も多かった割りに、幸福も大きかったわけである。ワーグナーは、ドイツ・ロマン主義の爛熟期に咲いた大きな花であった。

現代指揮理論の一つの大きな源流。

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夢を着々と実現させ、自作だけを上演する歌劇場を建てた稀代の存在。

 リヒャルト・ワーグナーは1813年、ドイツのライプツィヒに生まれた。彼の父親は警官だったがワーグナーが生まれて半年後に死んでしまい、翌年、母親が俳優であったルートヴィヒ・ガイヤーと再婚した。この俳優が実の父親だったろうとも言われているが、ワーグナーは父親への思慕の念が強いまま育ち、後年のオペラ作品の根底に強く感じられる。
 音楽史に残る作曲家やレコード史に残る演奏家は神童と呼ばれたケースが多いがワーグナーは、特別楽器演奏に秀でていたわけではなかったが少年時代は音楽理論を、トーマス教会のカントル(合唱長)から学んでいた。これが後の彼の作曲に大きな役割を果たすことになる。
 23歳の時には、マグデブルクで楽長となり、ミンナ・プラーナーという女優と結婚した。1839年ワーグナー夫妻はパリに移り、貧困生活を味わった後、彼のオペラ「リエンティ」の成功で、ザクセン宮廷の楽長となった。
 しかし幸せは長く続かず、ドレスデンで起こった革命に参加した罪で彼は亡命を余儀なくされる。スイスに逃れた彼は友人の助けで作曲を続け、1864年、やっとドイツに帰国することが出来た。
 とはいえ、仕事もなく、彼は借金まみれになってしまった。そのときバイエルンの国王で彼の熱烈な崇拝者だったルートヴィヒ2世が救いの手を差し伸べてくれた。彼らの友情は長続きしなかったが、その後ワーグナーはスイスに居を構え、1870年リストの娘であるコジマと再婚し(ミンナは少し前に死去)、バイロイト音楽祭を開くなど世界的な名声を得た。

ワーグナーは、警察につかまりそうになったり、ひとから借りたお金を返さなかったり、たくさんの女性と恋をしたり、いろいろ問題も起こしましたが、世界が神々の時代から人の時代に受け渡されるまでを描く広大な構想で、上演に5日かける、ものすごく長いオペラの音楽と物語をすべて自分で書くなど、天才的な才能を持ったひとでした。

ドイツ・バイエルン州バイロイトで毎年7月から8月にかけて、ワーグナーの作品のみが上演されるバイロイト音楽祭。

ワーグナーとバイロイト音楽祭

このバイロイトは、1972年にオリンピックが行われたバイエルン州の首都ミュンヘンから、北に約200キロほど離れた小都市で、ふだんは人口約6万人の静かな田舎町だが、この「バイロイト音楽祭」の期間中は大変な活況を呈する。現在、世界各地でいろいろな音楽祭が開催されているが、この「バイロイト音楽祭」は、その中で最も由緒のある、歴史の古いものの一つです。
毎年7月20日頃から約一ヶ月間に渡って行われる「バイロイト音楽祭」に出かけることを、ワーグナー・ファンは〝バイロイト詣で〟と呼んでいる。
彼が書き上げたオペラだけを上演するために、1876年にワーグナーがはじめたバイロイト音楽祭には、世界中からワーグナーのファンがたくさん集まります。
そのこけら落としには、チャイコフスキーもいた。彼は、「専門の音楽家である私が、四部作の個々の部分の上演の後に、精神的にも肉体的にもすっかり疲労困憊したのであってみれば、熱心に傾聴した愛好家たちの披露はどんなに大きかったことだろう」と書いている。確かに、この完成までに26年もの歳月を要した超大作は、聴き手にとっても全部聴き通すのは大変な時間と体力を要求する労作なのである。
ワーグナーが、最初に劇詩『ジークフリートの死』を書いたのは、1848年。35歳のことである。歴史上名高いマルクスとエンゲルスによる「共産党宣言」が発表された年である。2月22日、社会党と共産党を中核としたフランス市民は、政府軍に攻撃を開始し、パリに二月革命が起こった。3月に入ると、ウィーンに革命騒動が起こり、ワーグナーが宮廷楽長をしていたドレスデンにも、この革命の波はあっという間に押し寄せた。こうした物情騒然たる空気の最中、革命児ジークフリートをワーグナーは創造した。ジークフリートこそ、最もゲルマン的特性を備えた英雄であった。
ワーグナーはスイスに亡命。チューリッヒの豪商ヴェーゼンドンク夫妻の援助で、経済的にはなんら不自由することなく、文筆や創作活動に没頭することができた。
最初の計画では、後に全編の締めくくりとなった《神々の黄昏》にあたる「若きジークフリートの死」だけで独立したオペラとするつもりだったが、ワーグナーは筋を追って前へ前へとさかのぼった台本を書く必要を感じ、『ジークフリート』、『ワルキューレ』、『ラインの黄金』の順で台本を作成した。
この全曲を完成するのに、ワーグナーは26年の歳月を費やした。なんという息の長さ、なんという意志の強さ。しかも、さらに。この『ニーベルングの指環』を理想的に上演できる劇場をも求め、ついに志を遂げた。

 彼のオペラはそれまで付録のようについていた台詞を音楽と一体化させるという革命的なもので、多くの作曲家に影響を与えた。しかし、第2次大戦中ナチスによって彼の作品が使用されたため、戦中戦後は正当な評価を受けることが出来なかった。

楽劇「ラインの黄金」聴きやすいCD厳選5選。

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Das Rheingold
Pentatone
2013-05-23

大叙事詩としてのリングではなく、ドイツ人は子供の頃から馴染んでいるゲルマン民話をドイツ語を母国語とする歌手を揃えた1980年代はじめてPCM録音してから30年。ハンス・スワロフスキーと一脈通じるところがある演奏は明らかに前作を凌いでいる。


Wagner: Das Rheingold
Martin
Arte Nova Records
1999-03-05

速めのテンポで実にすっきりと指輪の世界を描き出していて、対訳と照らし合わせながらストーリー展開を覚えようとする初心者に最適。商業戦略優先ではなく、永劫普遍に誰もが親しめるものをとカラヤンが再録音したならば。綺羅星の歌手揃いでなく、こうした布陣で行っただろうカジュアルで聞けるオペラ。


ワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」-序夜「ラインの黄金」[2CDs]
ヤープ・ファン・ズヴェーデン
Naxos
2015-12-23

名バリトン、マティアス・ゲルネのヴォータンが、勿論要。登場人物の最も多い「ラインの黄金」はキャラクターの被らない歌手を揃えることが肝心。ヴォータンも「ジークフリート」では、さすらい人となって、神々しさも失せた存在を表現しないとならない難役だ。


Das Rheingold
Testament UK
2006-10-19

DECCAによる1955年のカイベルト指揮による正規ステレオ録音盤。然し、制作費を注いだショルティ盤が商業戦略優先、レコード史上初の全曲録音としての金字塔を建てるが故にお蔵入りしていた。このバイロイト音楽祭での録音は2007年に発売されて、ショルティ盤の天下を一転させた。


Wagner: Das Rheingold
Bayreuth
Decca
2013-04-09

1966年、バイロイト音楽祭でのライヴ録音。セッション録音のためプロンプトもしっかり聴こえる。祝祭劇場の構造さながら重心が深く、低音域が左側から響いてくる。


リヒャルト・ワーグナー 略歴

  1. 1813年
    ドイツで生まれる
  2. 1836年
    ミンナ・プラーナーと結婚
  3. 1839年
    パリに移る
  4. 1842年
    ドイツに帰る
  5. 1849年
    ドイツの三月革命に参加
  6. 1864年
    ドイツへの帰国が許される
  7. 1866年
    ミンナが死去
  8. 1870年
    コジマと結婚
  9. 1876年
    バイロイト祝祭劇場が完成
  10. 1883年
    死去

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