GB DECCA SDD109 ゲオルグ・ショルティ イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団 レスピーギ 風変わりな店 デュカス 魔法使いの弟子

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「 GB DECCA SDD109 ゲオルグ・ショルティ イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団 レスピーギ 風変わりな店 デュカス 魔法使いの弟子」を通販レコードとしてご案内します。

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「風変わりな店」は浅田真央選手がフリーで使ってもいた。

レスピーギがロッシーニの小品集「老いのいたずら」に基づいて作曲しました。
ストーリーは愛し合う一組の人形が別々の客に買われていくことになり、その危機を仲間の人形達が救うというファンタジー物語となっています。

イタリアの作曲家ジョアッキーノ・ロッシーニは筆の早さでも有名で、数年がかりでオペラを仕上げる作曲家もいるなか、ロッシーニは1年に3本ペースでオペラを発表していました。わずか18歳でオペラ作曲家としてデビュー後、すぐにその実力が認められ売れっ子作曲家に。
人気絶頂24歳の時に、わずか13日間で書き上げたのが歌劇「セビリアの理髪師」。喜劇的オペラの天才と呼ばれヒット作を次々と作曲。パリ・オペラ座と10年契約を結んだロッシーニですが、新作「ウィリアム・テル」を作曲中に突然断筆宣言。37歳の早すぎる引退に世間は驚きました。
喜劇ばかりもてはやされ、人気の一方で限界を感じていたロッシーニ。時を同じくして、パリでは空前のグルメ・ブームが巻き起こっていました。街なかのあちらこちらにレストラン文化が花開き、中級階級の市民もレストランへ食事に出掛ける時代が到来したのです。
ロッシーニはフランス国王シャルル10世の即位に際、「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得たことによりますます食に贅を尽くす日々を送る様になっていました。そこに1830年の7月革命が起こりフランス国王シャルル10世が退位する自体に、政変のあおりでロッシーニの年金契約が無効とされてしまいます。
そこでロッシーニは新政府を相手に終身年金を求める裁判を起こし、オペラの筆を折ると宣言しフランス政府に圧力をかけたのです。契約はあと5年残っている。グルメ・ブームを通じて、美味追求が芸術や学問と同質の文化的営みと理解されていた時流にもロッシーニは乗ってしまいます。
裁判が審議される間のつもりで料理の創作に情熱を注ぐようになり、考案したトリュフとフォアグラを使った様々な料理が評判となり、1836年、裁判に勝って終身年金を得たロッシーニは、すでに料理家としての情熱の方が作曲家としてのそれに勝っていました。
溢れんばかりの才能で苦労せずとも有名になった故、その地位に固執していなかったのでしょう。生業にはしなくても宗教音楽や室内音楽の作曲を行い、晩年には各界名士を招いて毎週美食の晩餐会を催し、「ロマンチックなひき肉」「バター」など、料理や食材の題名の音楽まで作曲している。大変なセンスと稀代の作曲能力は衰えなかった。

近代イタリア復古主義の一翼を担った作曲家 レスピーギ

オットリーノ・レスピーギは1879年生まれのイタリアの作曲家、指揮者。「ローマ三部作」と呼ばれる交響詩「ローマの噴水」「ローマの松」「ローマの祭り」が有名です。レスピーギの音楽を聴き終わった後の満足感が保証されるのは、近代的な和声法やテクスチュアと忘れられていた音楽から新しい音楽語法を融合させている、「新ルネサンス様式」「新バロック様式」と呼べる過去の作曲家や古い様式への献身にある。
ボローニャの音楽学校でヴァイオリンとヴィオラを学んだ後、1900年にペテルブルク歌劇場のヴァイオリン奏者となり、ここでリムスキー=コルサコフを知って、彼に管弦楽法と作曲を学んだ。1902年にはベルリンでブルッフに師事、1913年にローマに居を移し、聖チェチーリア音楽院教授に就任、のちに院長となった。レスピーギは生涯離れることのなかったローマに限りない愛情を感じ、交響詩の3部作、「ローマの泉」(1917年)、「ローマの松」(1924年)、「ローマの祭」(1929年)を作曲した、バレエ音楽「風変わりな店」(1918年)、3曲の「リュートのための古代舞曲とアリア」(1917〜32年)も名高い。
イタリアから伝搬していった音楽文化の、ヨーロッパ全土からの影響を咀嚼して、現代的な音楽文化を成立させた。彼の音楽はイタリア人特有の流麗な旋律美と、巧緻な近代的管弦楽法によるイタリア的な色調が魅力となっている。
このバレエ音楽「風変わりな店」は、レスピーギが、ロッシーニの未出版の小品集の中から素材を借りて作曲した1幕のバレエ音楽です。レスピーギは、ロッシーニの「老いの過ち」を題材にした「ロッシーニアーナ」も作曲しています。
バレエ「風変わりな店」のストーリーは、海岸沿いの玩具店を訪れたアメリカ人の家族とロシア人の家族に店主が音楽に合わせて踊る人形を見せる。やがて1組の人形の1体が買い上げられるが、残った人形たちが夜中に動きだすというもの。次の8曲が連続して演奏されます。
「序曲」(世界的にも有名な人形店ののどかな情景が描かれています。しかし、そのお店は魔法の人形達がいる「magic toyshop」なのです。
「タランテラ」人形店に二人のイギリス人女性とアメリカ人の家族がやってきて賑わい始めます。人形達は自分こそが買われようとパフォーマンスを披露していきます。
「マズルカ」トランプがデザインされた人形はマズルカを披露します。
「コサックダンス」ロシア人の家族が来店すると全ての人形は彼らを歓迎します。そしてコサック人形はロシアの伝統的な踊りを披露します。
「カン・カン」店主は彼のお店でもっとも洗練された一組のカン・カンダンサーの人形を披露します。華やかなドレスを身にまとった彼らは素晴らしい踊りを客に披露します。
「ゆっくりなワルツ」その素晴らしい踊りに感心したアメリカ人の家族は男性の人形を、ロシア人の家族は女性の人形を買うことにします。支払いは済まされ二人は別々の箱に入れら翌日には引き渡されることになります。
「ノクターン」帳がおりると店の人形達は踊り始めます。そして、彼らは愛し合う二人が引き離されないようにお店から逃がします。
「ギャロップ」翌日訪れたお客は人形が消えたことに腹をたてるのですが、コサック人形が銃剣で彼らを追い払います。やがて、幸せそうに踊る二人のダンサーをお客達は驚きの目で見守る中で幕はおります。

親しみやすいユーモラスな旋律にあふれた交響詩「魔法使いの弟子」は、ゲーテのコミカルな詩の世界を見事に描いた名曲です。

ディズニー映画「ファンタジア」で有名になった交響詩「魔法使いの弟子」。作曲者ポール・デュカスは、気に入らない作品は一切残さない誇り高き完璧主義者でした。
パリに生まれたデュカスは16歳でパリ音楽院に入学。若手音楽家の登竜門「ローマ賞」に応募しましたが結果は2等。1等を取れなかったことに失望したデュカスは音楽院をやめてしまいます。彼は誇り高き完璧主義者だったのです。
その後デュカスは兵役に就き、音楽とは無縁の生活を始めますが彼にとっては苦手なものばかり。過酷な訓練に音をあげていました。そうした中、音楽に理解のある軍楽隊の隊長との出会いがきっかけとなり、何と兵役中に2か月間オペラの上演を手伝う、という異例の任務を命じられたのです。オペラは大成功。デュカスは除隊し再び音楽の道を歩み始めます。今度は作曲のみならず音楽評論家の活動も始めました。
他人の作品を批評する立場になったデュカスは、自分の音楽に対する完璧主義を一層強固なものにしていったと言われています。そうした中で出会ったのがゲーテの詩「魔法使いの弟子」でした。ドラマ性やユーモアに溢れたこの詩は、デュカスにとって完璧な詩であり彼の創作意欲を刺激したと言われています。
寡黙な作曲家ではなく、旺盛な作曲ぶりでしたが、音楽評論家で名を成した手前、自己評価も厳しく、デュカスは70以上の未発表の作品を全て破棄し生涯に僅か十数曲しか発表しませんでしたが、そんな彼が自信を持って世に残した完璧な作品、それが「魔法使いの弟子」です。
魔法使いの老師が弟子に留守を任せたところから物語は始まります。覚えた魔法を使ってみたくなった弟子は、古いホウキに水くみをさせようと魔法の呪文を唱えます。ホウキは動き出して水くみを始め、水槽の水かさは増えていきます。やがて弟子は、止める呪文を忘れたことに気づきますが、ホウキの水くみは止まりません。遂に弟子は、ホウキにおのを振り下ろし真っ二つに割ってしまいます。やれやれと弟子が安心したのもつかの間、今度は、割れたホウキが2本になって水くみを始めました。もう部屋の中は水びたし。あわや弟子が溺れそうになったところに老師が帰宅し呪文を唱えると、水はピタリと止まるのです。

第2次世界大戦の潜水艦技術から、〝ステレオはロンドン〟へ

ステレオ録音黎明期の1958年からイギリス・デッカ・レーベルは、〝Full Frequency Stereophonic Sound(FFSS)〟と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた。レコードのステレオ録音は、英国デッカが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英デッカは、1941年頃に開発した高音質録音〝ffrr〟の技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、イギリス・デッカはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、同年5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLPレコード3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとして〝FFSS〟が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。

  • Record Karte
    • 1957年3月録音
    • 英デッカのステレオ録音最初期の優秀録音・名盤のAce of Diamonds盤。元が圧倒的な優秀録音のため、この廉価盤も依然高音質を保っており、お勧めです。

販売レコードの写真

  1. GB DECCA SDD109 ゲオルグ・ショルティ レスピーギ「風…
  2. GB DECCA SDD109 ゲオルグ・ショルティ レスピーギ「風…

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