を通販レコードとしてご案内します。
モーツァルトは愛犬の名前を〝ビンベス〟と呼ぶ ― モーツァルトと母アンナ・マリアが1777年9月23日にマンハイムへと向かった旅は、新天地に活躍の場を求めた求職のためでしたが、どこの宮廷にも相手にされず、さらに向かった、パリは12年後に革命を迎えることを予見させるくらい、経済生活も混乱し始めていたようです。アンナ・マリアの手紙からも、物価高、暗い部屋とまずい食事、にもかかわらずとても高い料金などに対する不満が切々と綴られています。ザルツブルクのモーツァルト家では名前は「ビンベス」、愛称は「ピンペルル」という雌のフォックステリアを飼っていた。ナンネルは1777年9月28日付の手紙で《ピンペス嬢はなおずっと希望のうちに暮らしていて、半時間も門のところに立ったり座ったりして、あんたがたが今にもやってくるものと思っています。それでも彼女は元気で食べもし、飲みもし、眠りもし、ウンチもし、またオシッコもしています。》と弟に語っている。モーツァルトは神童時代に2度パリを訪れ、ヴェルサイユ宮殿を訪れ、ルイ15世と食事をともにしていますが、もはやルイ15世はすでに亡くなり、国王ルイ16世の宮廷からお呼びがかかることもありませんでした。そこでモーツァルトは、パリの演奏団体コンセール・スピリチュエルに期待していました。しかし支配人ジョゼフ・ルグロは必ずしもモーツァルトに好意的ではなく、作品の演奏に当たってもさまざまな妨害を受けたようです。演奏のために提供されたクラヴィーアたるや調律もしていないおんぼろ楽器でした。苦境のモーツァルトはいつも外出がちで、フランス語をあまり解せない母アンナ・マリアは寂しさを募らせていったようです。留守宅が恋しかったことでしょう、アンナ・マリアはザルツブルクで吉報を待つレオポルトに《ビンペルルが ― 私の望みどおりに ― 自分の義務を果たし、あなたに体をすりよせてきますように。だって、良き忠実なフォックステリアなんですもの。》と手紙を出している。レオポルトからの返信は《お天気が良いときは、早いうちに、私たちの忠実なピンペルルといっしょに、毎日散歩に出かけますが、この児はとても陽気で、私たちが二人とも家にいないときだけはとっても悲しげで、しかも目に見えてものすごくおびえています。というのは、この児はおまえたちがいなくなってしまったので、私たちが舞踏会に出かけてしまうと、今度は私たちも失ってしまうのじゃないかと思っているからです。私たちが外出していると、私たちが戻ってこないかと、ずっと見張っているのです。そして私たちが戻ってくると、ものすごくうれしがるので、息でもつまりはしないかと思うほどです。》結果的には1778年7月3日にアンナ・マリアはパリで客死し、帰らぬ人となる。しかもアンナ・マリアが知る愛犬〝ビンベス〟も二人が旅に出て不在の家で1777年末には亡くなったようで、翌年早々には雄の犬に代替わりしている。しかし、レオポルトが旅先の家族を寂しがらせないよう気遣ったためか、二代目も一代目と同じ名前がつけられた。レオポルトは1778年4月13日付のパリに宛てた手紙の末尾で、次の通り愛情込めて語っている。《ピンペルルはとても元気です。彼はテーブルの上にあがると、一本の前足でまことにお利口さんにセンメルをひっかいて、一つもらうようにし、またナイフをひっかいて、切ってくれるようにするのです。それにテーブルの上に嗅ぎ煙草いれが四、五個あると、スペイン煙草が入っているのをひっかき、一本取り出してもらい、その上で彼に指をなめさせるようにさせるのです。》犬はモーツァルト家の中心的存在だったことが、旅先から留守宅への家族の手紙でよく分かる。のちにモーツァルトがザルツブルクを離れウィーンで自立したときもやはり小鳥と犬を飼っているが、彼の心の中には幸福だった頃の一家4人とカナリアとビンベスの生活がいつまでも忘れられずに残っていたのである。
from 100年後でも聴いて楽しいアナログ名盤レコード https://ift.tt/2OmnNdE
via IFTTT

