流麗闊達な音の流れが与えてくれる愉悦と爽快さ。 ― サン=サーンスを聴く前に、モーツァルトの話から。モーツァルトは、36年に満たない短い人生の中で、およそ3分の1にあたる10年以上を、旅先で過ごしています。1762年、6歳のときに始まって、1791年死の年まで続けられた計17回の大小のモーツァルトの旅。とりわけザルツブルク時代には、多くの国々を回り、「神童」の腕前を披露する一方、あちこちの音楽や音楽家を知り、自らの中に取り込んでいきました。モーツァルトは、旅は人を豊かにすると考えていたようです。彼の旅はひたすら音楽へと収斂する形のものであった。音楽を中核として音楽に関係ないものは殆ど無く、彼の人生に於いては度重なる旅行が点在しているのでなく旅の只中で人生が展開してゆく。そのような旅であった。ですからモーツァルトは、旅をしないでザルツブルクに閉じこもっているような人を軽蔑してもいた。ザルツブルクの閉鎖性は、モーツァルトにこの街を捨てさせることになる、ひとつの原因となっていく。尤も、このような考え方は、当時として際立ってユニークだったわけではなかった。18世紀後半のヨーロッパは、とても人の交流が活発で、とりわけ音楽家たちは、あちこちの宮廷や貴族の館を渡り歩いていました。サン=サーンスも、実に多くの旅をした。その足跡は、パリを起点に、東はサイゴンから西はサン・フランシスコまで、北はストックホルムから南はブエノス・アイレスまで、ヨーロッパ各国はもとより、南・北アメリカ、北アフリカ、アジア各地、更にはカナリア諸島にも及び、フランス国外への旅行だけを数えてみても、その数は優に130回を超える。ピアノ奏者としても名手の誉高かったサン=サーンスは、自作品の演奏に、指揮に、これらの旅を殆ど絶え間なく、生涯にわたって続けたのである。鉄道が馬車に、汽船が帆船に変わったとはいえ、重なる旅が、サン=サーンスにどれほど多くの時間を費やさせることになったかは、想像に難くない。しかも、モーツァルトの旅が、彼の人格と音楽様式の育成に影響を与え、それを決定するまでに深く人間と音楽そのものに関わったのに対して、サン=サーンスには、そうした影響は殆ど見られない。確かに彼の作品表に旅の記念を見出すことは易しい。例えば、「アルジェリア組曲」、「リスボンの一夜」、「ナイルのほとりにて」、また、「アンダルシア奇想曲」等等等……。しかしそれらは、題名からも連想される通り、異国趣味の香りと彩りに装われた一連の、雰囲気或いは風景描写に過ぎない。勿論、旅の先々で未知の様式に触れ、そのことが啓示となり得たモーツァルトの時代では、もはやなかったし、サン=サーンスの旅は、自己形成の後に始められる。居ながらにして知り得る音楽上の動静も、過去の量の比ではなかっただろう。そして、サン=サーンスも神童と呼ばれていた。作品の量においても、彼が書き残した楽曲 ― 作品番号にして169、他に11曲のオペラを含む諸作品、就中尨大な量の歌曲 ― は、86歳の恵まれた長寿の所産とはいえ、同時代の他に抜きん出て多い。ここから、自ずと一つの像が結ばれる。瞑想するよりも、行動しつつ作曲する精励家、早くに自己の美学、様式を形成し、発展、熟成はあっても、変貌を遂げることのなかった信条家、反復を意に介さぬ、反・近代思潮の持ち主。彼は能力の赴くままに、恰もただ書けるからとでもいった風に書く。裡なるデーモンの顕れを、個人的感情の流露を、サン=サーンスはむしろ惧れ、戒める。サン=サーンスが意図したところは常に、古典的均整と明快さにあった。命題は外に設定される。こうして、彼にとって作曲とは、外在するその命題を解くことに他ならなくなる。即ち、ノルベール・デュフルクの言う「厳密な設計、明晰な構築、論理的な展開、節約された線的・和声的手段」の綜合である。ベルリオーズに〝この青年はすべてを識っているが、未熟さに欠けている〟と言わしめた完璧さと、ドビュッシーをしてクローシュ氏(ドビュッシーが評論をする時のペンネーム)に〝古今の音楽にあんなに良く通じていたために、ちと個人的すぎるような欲望によって音楽を捻じ曲げることには、彼はけっして賛成できなくなったのさ〟と辛辣に語らしめた。だから〝ドビュッシーや、フォーレや、ラヴェルの革命からなにものも受け入れずに20世紀まで生き残った〟のである。練達の手腕をもってされた作品の堆積は、易易足ることであったろう。それらに、《作品個個の個性化》という近代の創作意識の反映が認められないことも、当然といえばいえよう。サン=サーンスの作風に終生変わることなく一貫する《反・主情主義》とも呼ぶべき客観的姿勢は、音楽史上のロマン期から現代に及ぶ期間に存在した違いこそあれ、ロマン主義者 ― シューマン、ブラームス、ショパン、ベルリオーズ ― 達のなかでの古典家メンデルスゾーンに近いといい得ようか。しかし、比類なく精緻な仕掛けの音楽家ラヴェルが規範と仰いだ点こそも裏付ける材料になるところ。加うるに、告白の忌避、無欠への意志とその達成にあったろう。
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