歌の翼に ― シュヴァルツコップ珠玉の名歌集。エリーザベト・シュワルツコップ40歳の時に夫君ウォルター・レッグのプロデュースで作ったチャーミングな1枚。歌詞への鋭い踏み込みでドイツ歌曲の現代的表現を確立した彼女だが、ここではポピュラーな名曲を麗しい歌声で瑞々しく歌い上げ、美しい旋律を心から堪能させてくれる。さまざまな機会に語られたシュヴァルツコップの言葉は、どれも彼女の芸術の核心に触れている。これほどフランクに自己の歌曲観を披瀝し、自分の歌唱を裏付けるものをさらけ出してみせた歌手というものは珍しい。その中でとりわけ心を惹かれるのは、リートをあくまでも詩と音楽との総合として捉えようとする態度である。そんな足り前のことを、なにをいまさら ― といわれそうだが、シュヴァルツコップのレコードを聴き重ねながら、この思いが厚くなる。歌曲におけるテキストを、いわば標題楽における標題及至は発想指示のように受け取り、内容の理解は大意だけで満足し、個々のことばを単に音響的な素材としてしか考えない ― そんな歌手が、大手を振ってまかり通った時代は、そんなに遠くはないのである。そして現在、多くの歌手がリートの本質を振り返り、真剣にテキストに取り組んでいるとしたら、その事自体が、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウやシュヴァルツコップのような歌手の出現がもたらした大きな革新の成果なのだ。それにしても、〝ひとつひとつのことばは、ひとりひとりの詩人、作曲家によって異なった意味を持つ。たとえば、Wald(森)ということばを採ってみても、メーリケ、アイヒェンドルフ、ゲーテの詩の中で、シューベルト、ヴォルフ、ブラームスの歌曲の中で、それぞれに違った意味を持っている〟というシュヴァルツコップの言葉を、身にしみて聞く人がどれほどいることだろう。歌手はその違いに気づくだけでなく、それを自分の歌唱に反映させなければならないのだ。従ってこんな言葉を語ることにどれほどの勇気が要り、それ故にまたその言葉はどれほどの意味を持つことだろう。たまたまこのレコードには〝歌の翼〟に触れた2曲の歌があり、ハイネにしろ、ユーゴーにしろ、その詩の中でいわれている〝歌〟はつまりは〝詩〟のことである。文学としてとどまる限り、翼を持たない詩に翼を与えて、鳴り響くものとして聴者の胸に運ぶものは、音楽にほかならない。自然発生的な歌曲における詩と音楽との関係は、まさしくそのようなものであった。詩に曲をつけることの意味は、テキストのテキストの朗唱から得られたリズムやメロディーと、それを支える和音とによって、詩句を自然な音楽的流れとして響かせ、テキストの内容の平均的な解釈に基づく詩の全体的なムードを、より快く味あわせることであった。〝詩は音楽によって完全なものになる〟というゲーテの言葉も、そうした歌の翼への希求の表明にほかならない。シューベルトの出現によって、その事情が一変した。どこから得たのか判らぬ不思議な能力によって、彼は詩のひとつひとつのことばを音楽の中に解体し、音そのものを意味を持った実体と化した。音楽はもはや単に詩の意味を運ぶ翼ではない。いわばはじめから翼あるものとして創り出された抒情の一形式 ― つまり近代的な意味でのリートが生まれたのである。それ以後のリート作曲家にとって、詩を単にムード的に把握することなどは許されない。テキストの一語一語が大きな重みを持ちはじめ、ひいては詩人の特性に対する鋭い解釈が歌曲の中に反映する。この辺の事情は、シュヴァルツコップが歌手の立場で語っていることと同じことである。シューマンにおけるハイネ歌曲とアイヒェンドルフ歌曲の肌合いの相違、ヴォルフにおける詩人別歌曲集の個別的な特性などは ― 更にはアイヒェンドルフ歌曲におけるシューマンとヴォルフの異質性も、誰の耳にも明らかであろう。このレコードは実はリートの集成ではなく、シュヴァルツコップのレコードの中でも最も幅広いレパートリーを持っていることが、問題をいささか複雑にする。外国の曲、ことに外国語の問題が絡んでくるからである。しかし、シュヴァルツコップがあえてそれを選んで歌う以上、必要があれば自国語におけると同じ問題を避けようとはしないだろう。ただ、ここに集められた歌の中には、民謡もしくは民謡調のものが多く含まれ、創作歌曲も一部を除いては、素朴に〝歌の翼〟としての音楽をまとった曲が多い。それらの曲にあっては、歌う方も聴く方も、むしろ虚心に美しいメロディーを楽しみ、快適な気分にひたるのが本筋かもしれない。日本盤は〝歌の翼に〟のタイトルがつけられていることで、以上のことを考えされた。
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