人生のすべてが肯定できる人。 ― 晦渋で、とっつきにくい作品については、根気よく聴き続けることで、ある日ある時、突然腑に落ちるときが訪れる。《ロ短調ミサ曲》はヨハン・ゼバスチャン・バッハの若いときの作品から晩年に至るまでのパロディからなっている。人生を振り返ったときのそれぞれの時点でのスナップショットを、そのまま並べただけのものではなく、考え尽くしたバランスと磨き上げられた細部の仕上げをしたポートフォリオとでも言えましょうか。若いときに作ったものだからと焼き捨てることなどないどころか、20歳代のときに作った曲にも愛着をおぼえ、まるでこのために新たに書かれたかのように見事に再利用している。おそらく一切の後悔のない、人生のすべてが肯定できると確信できる人だったのだろう。悲しみも怒りも、喜びも楽しみも、すべては不足なく、必然であるということだ。ヘルベルト・フォン・カラヤンの《ロ短調ミサ曲》は美しい。そして、熱い。エリーザベト・シュヴァルツコップ、マルガ・ヘフゲン、ニコライ・ゲッダ、ハインツ・レーフスをソリストに起用した名演の誉れが高いカラヤンの1952年録音の《ロ短調ミサ曲》。シュワルツコップとヘンゲンの二重唱も美しい。シュワルツコップが後年に感じる独特の癖がなく、とても素朴だ。この頃のゲッダも、意外と明朗で優しい声に慈愛を感じる。レーフスは四重唱の奥の支えとしての存在感がある。合唱も無理に声を張り上げる事もないので、とてもバランスが良い。カール・リヒターやオットー・クレンペラーで同曲を聴いた時のような神々しい程の荘厳さはないので、強烈な印象なんぞ何もない。この辺に当時の巨匠のバランス感覚を知る事となるのだが、徐々に音楽が温まって行くので、それなりの緊張感はある。この録音はオーケストラの表記が以前から曖昧な部分があったため一部に混乱があり、最新の調査でウィーン交響楽団と特定されています。〝The Chorus And Orchestra Of The Society Of The Friends Of Music〟がウィーン楽友協会のオーケストラ=ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と解釈されてきたためでしょう。ウィーン響とするわけも行かなかっただろう理由として、フィルハーモニア管弦楽団黄金時代の主席奏者、マノウグ・パリキアン(ヴァイオリン)、デニス・ブレイン(ホルン)、ガレス・モリス(フルート)、シドニー・ザットクリフ(オーボエ・ダ・モーレ)、ペーター・ニューベリー(オーボエ・ダ・モーレ)が参加している点も魅力です。カラヤンとウォルター・レッグの録音に挑むに当たっての入れ込みようが興味深い。ウィーン・フィルの演奏であれば独特のウィーン奏法が聞かれなければならず、ピッチの問題もあるので簡単なものではない。それでマニアは「シンフォニカの方かな?」との仮説を建てたが、ウィーン響の中にフィルハーモニア管の首席奏者が混ざって演奏することは考えにくい。カラヤンはこの録音のために70回以上にも及ぶリハーサルをおこない万全を期したのですが、録音当日になってカラヤン自身が敗血症で倒れ、多忙ゆえスケジュールの延期が出きず病をおして録音を敢行、指揮台に運んだ病床に横たわりながら指揮したとされています。要するに、スケジュール通りにウィーン響とムジークフェラインザールでセッションをはじめて、ロンドンでフィルハーモニア管を起用して続けられたわけだ。ウィーン・フィルではなく、ウィーン響であったことが幸いしたか、録音マジックなのか違和感を感じさせないのは見事。その御蔭なのか、この曲を聴こうと思った時には割りとターンテーブルに乗せる機会の多いレコードである。ささやかに音楽が語り掛けるので、素直に演奏に身を浸す事が出来る。「キリエ」はどきりとする程の壮絶な印象が残り、「グロリア」も活気があって宜しい。良く訓練された楽友協会合唱団の実力を堪能出来る。素直に音楽に没頭する様は感動する。「サンクトゥス」から「ホザンナ」に掛けては圧巻だ。この時代は巨匠の指揮は、流石に溌剌としている。それがいざと言う時の瞬発力なのだが、全体の構成を見つつも突進する箇所は、やはり若さが出ている。時代の要請もあるのだろうが、厚みのある濃密な浪漫薫る音楽の宝庫。虚心坦懐に耳を傾け思うのは、時間を超え古い録音から垣間見える本物の活気。「アニュスディ」も然程深刻になり過ぎない。終曲の「ドナ・ノビス・パーチェム」まで達する頃には充足感で一杯になっている。
from 100年後でも聴いて楽しいアナログ名盤レコード http://bit.ly/2J11tT7
via IFTTT

